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御手紙 葉
御手紙 葉
novelistID. 61622
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女神の微笑み ~After The Nightmare~

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女神の微笑み ~After The Nightmare~

 ほとんど何をする気も起こらないのは、何故だろう、と思う。瞼がどこか重く、視線も不安定に彷徨い、肩がどこか岩が乗ったように重い。
 ビロードのような七色の日差しが差し込む屋敷の庭は、春の暖かな風に晒されて、穏やかな雰囲気に満ちていた。私はテラスのテーブルの上に両手で頬杖を突き、まっすぐ前を見つめている。
 もうそろそろ、我慢の限界だった。このまま寝てしまおう、と思う。金属製のテーブルは、顔を伏せるには少々硬すぎるような気もするが、それでもこの暖かな風さえあれば、心地良く眠りにつけるだろう。
 待っていても、彼女はどうせ来ないのだから。期待感だけを膨らませて、後で落胆するのはあまりにも滑稽すぎるように思える。だから、とりあえずこのやるせなさを眠気へ変えて、すべてを投げ出してしまおう、と思う。
 そうして顎を支えていた両手を下ろし、その上に頬を寄せて寝る姿勢に入った。瞼を閉じると、すぐに睡魔が手招きしてくる。私は最後に、朦朧とした頭で「だから、女は嘘つきなんだ」と吐き捨てるようにつぶやいた。
 威勢良く言ったつもりのその言葉は、リストラされて酔い潰れるサラリーマンのように弱弱しく、自分でも、ああ哀れだな、と思った。
 それでも母親の胎内にいるような心地良さが全身を包み込んできて、何かを嘆く暇さえ与えられなくなる。
 そうして私は、眠りについた。

 辺りは一面に、血の色で染め上げられていた。私はその途方もなく広大な風景を前にして、呼吸することもできずに、赤い湖を凝視する。
 真っ白な砂浜に寄せるように、血の海がたゆたっていた。生物の気配が消え失せていた。まるで、世界の終焉を具体化したような風景だった。
 硬直していた私の体は、それでもまだ生命活動を止めてはいなかったようで、すぐに貪るように酸素を吸い込み、肺を膨らませ始める。
 どこなんだ、ここは、と私はつぶやく。自分でも聞き取れないほど小さい声だったはずなのに、それはやまびこのように辺りに反響した。
 そっと一歩を踏み出し、波打ち際に近づく。震えながらも、そっと身を乗り出して水面を覗いた。私の額から汗が滑り落ち、水面にぽちゃんと波紋を広げさせた。
 そこに映っている蒼白な男の顔が揺れ、鼻を中心として幾重もの円が広がっていく。水面は濁っていて、何か色素のようなものが蠢いていた。私の鼻息がさらに水面を震わせ、濁りが糸を巻いて沈んでいく。
 そこで、何故か水面に映った顔が笑ったような気がした。
 私は思わず、「あ」と声を漏らして、後ずさった。しかしその時には、無骨な感触が足首を覆っていた。水滴が飛び上がり、水面から伸びてきた手が次々と私の足に覆いかぶさっていく。
 私は喘ぎ声を漏らして、必死に後ずさろうとするが、無数の腕が私の足を引っ張り、引きずり込んでいく。
 やめてくれ、と私は叫んだ。その途端、一気に水面に無数の顔が浮かんだ。けらけらと、笑い声がする。顔が声を上げて笑っていた。その嘲笑が私の耳朶を打ち、私の心臓をつかんで抉り出そうとする。
 私は赤い海面へと引きずり込まれながら、必死に腕を伸ばして砂浜に手を突き立てようとする。しかし、砂はさらさらで柔らかく、私の手は空を切り、そのまま無音の世界へと呑み込まれていった。
 私ははるか海面へと沈んでいくのを感じながら、ふと彼女の名前を呼んだ。いつも私を助けてくれたあの微笑みが、脳裏に浮かんで、必死にその名前を繰り返す。
 その途端、私の四肢をつかんでいた無数の手の力が弱まった。私はただその名前を繰り返す。すると、濁っていた水中が、徐々に透明になり、澄んでいくのが見えた。
 血の色の日差しが、徐々にオーロラのような光に変わり、私の体はゆっくりと水面へ浮き上がっていく。
 そして、一つのすらりとした腕が水中へ入ってきて、私の前へ差し伸ばされた。その指はどこか優しげにすらりと細く、私は反射的にその手を握った。そのまま私は引き上げられていく。
 水面から顔を出すその瞬間、黄金に煌めく太陽が見えた。それを背景として、微笑んでいたのは、

 ふと目を覚ました時には、体が滝のような汗を掻いていた。右手を誰かの指が優しく握っていることに気付き、そっと瞼を開ける。
 すると、間近に顔があった。なだらかな曲線を描く、少し太めの眉に、透き通るような鼻梁、そしてわずかに微笑まれた唇。
 その瞳が、気遣わしげにこちらを見つめていた。私は、奈々子、とぽつりとつぶやく。
「随分うなされていたようだけど」
 彼女は私の右手を握ったまま、傍らに椅子を持ってきて座っていて、顔をのぞきこんでいた。
「今起こそうと思って右手を握ったら、すごい力で握り返されてね。すぐに起こそうとしても、呻き声を上げるだけで起きる気配がなかったから」
 私はそっと顔を上げて、椅子の背もたれに寄りかかった。頬にはテーブルに触れた跡が残っていて、ひりひりした。
「あなたが起きないから、私、あなたの体を無理矢理引っ張り起こそうとしたの。そしたら、ようやく起きたわ」
 彼女はそう言って、紫陽花のような柔らかな笑みを浮かべる。私は何故かその顔から目が逸らせず、汗が冷えて蒸発していくのを感じた。
「あなた、ごめんなさい。約束したのに、来るの、遅れてしまって」
「いや、いいんだよ」
 私は首を振って、その握られた手を見つめる。
「君はいつだって、私が泥沼に嵌っていたら、引っ張り起こしてくれる。今、そんな夢を見ていたんだ」
 彼女は不思議そうな顔をして、どういうことなの? と小さく聞いてくる。
 私はただ笑って、「いや、本当に些細な、どうでもいいことなんだよ」と額の汗を拭った。
「それより、あなた、お茶を淹れるわ。さっき紅茶の店で新しい葉っぱを買ってきたの」
「それはいいな」
 彼女の微笑みを見つめていると、あの夢を見る前の憤りなど、霧散してしまうのを感じた。すぐに済むわ、とつぶやき去っていく彼女の背中を見つめながら、私は女神の姿を彼女に重ねていた。

 了