病める道化師
頭半分以上も背の高い橘に上からきつく抱き締められて、黒川は顎を橘の肩に乗せるように仰向けて息を吐いた。びっしょりと濡れた髪が耳元にぎゅッと押し付けられる。髪の間から触れ合った耳の熱さに狼狽した。薄汚れた板天井を見ていると、不意に絶望的に凡庸な日常に引き戻される気がして、目を閉じた。閉じた瞼の隙間が尚も熱かった。橘の腕が緩んで、少し顎を引き戻されたときも、目を伏せたままでいた。
接吻したいなんて思ったことは無かった。されてみたいと思ったことはあるような気がした。橘の唇は血の味がした。伸ばした舌先を絡めたときも、血の味がしていた。自分の口の中はいつも血の味がしていたのだと思った。ただ、自分の唇を吸い上げる橘の仕草は優しくて、ひどく甘ったるかった。口づけが甘いのなら、それはただただ温かみと仕種の所以だ。初めて触れた橘の唇は甘くて死にそうに気持ちよかった。
橘の指が唇の端を拭い、頬を撫でて先程まで包丁の刃が突き付けられていた喉元を彷徨い、シャツの右の襟にかかって止まった。そのことにはっと息を止めて顎を引いた。
橘は無言のまま、黒川の胸倉を掴んで突くような仕草で、畳の上へその体を引き倒した。天井が急激に遠くなったので黒川は自分が床に突き倒されたことに気付いた。それくらい、静かな所作だった。右の襟を握り締めた手だけに、息が詰まりそうなほど力が籠っていた。今にも逆の手で頬を張ろうかというような力だった。
つい今し方啄み合った筈の橘の唇はまた引き結ばれていた。髪から垂れて来た雨が一雫、その唇から横たわる黒川の鼻梁へ落ちて弾けた。思わず瞬きをした。体温に温んだ水滴がやたら生々しくて、黒川は小さく吸った息を震わせた。その息を吐くより前に、橘のもう片方の手が左の襟の合わせ目を掴んで、不意に思いきりそこを開いた。
釦がひとつ、飛んで畳の上を跳ねてどこかへ転がった。くだらない小石や捩子の入ったみすぼらしい菓子の空き箱の姿をした子供の頃の宝箱を無残にひっくり返されたような心地がした。酷く無防備な辛さが胸一杯に広がり、幼稚な悲しみが込み上げて来て、抗えなくなった。橘の手から力が抜けた。
「すまない、」
「続けろよ」
舌打ちしたいほど震えた声が出た。
「怖いわけじゃない」
悲しいだけだ。幼児のように泣き喚きたいほど悲しいだけだ。それも、宝箱をひっくり返されて悲しいわけではない。宝箱がただの薄汚い空き箱で、宝物がただのがらくただったことが悲しいのだと思った。そのことに気付いてしまった子供は不幸だ。大人になれる日が来るまで、永遠に不幸なのだ。
「ぼくはいかれてる」
黒川は笑おうとして嗚咽した。
「続けろよ。許さない、これでお終いにするなんて、絶対に許さないからな」
橘は黒川の濡れた鼻梁にゆっくりと唇を押しつけた。その熱さに、黒川はふとセックスしたいと思っていたのは自分ではなくてこいつだ、と気付いた。目の前の親友と寝たいと思っていたのは、キスをしたいと思っていたのは、性器を擦りつけ合って快楽を共有したいと思っていたのは、橘だ。
発作的な笑いが痛みと一緒に胸を突き上げて来た。笑いは喉笛を通り過ぎる間に嗚咽に変わって溢れた。黒川は自分が発情した雌犬のように気が立っている、と思った。それからすぐに、発情した雌犬のように気が立っているのではなく、発情した雌犬のように欲情しているのだと思い直した。炙った肉から溶け出す脂のような興奮が感傷を押し潰していた。怒りのような殺意のような苛立ちのような癇癪のようなそれは、感情というよりは寧ろ、劣情だった。
「言えよ橘、ぼくを罵れ、気狂いだって、言えよ」
黒川は投げ出していた脚を引き寄せ、曲げた膝で自分の上に四つん這いで屈み込んでいた橘の股間を探った。見ていて気の毒なほどの羞恥がその顔を過ぎった。彼の男は確かに硬く勃起し射精を欲していた。橘が喘いだ。
「どうして」
「お前のどうしては聞き飽きた」
「答えないからだ」
黒川はひとつしゃくり上げて、首を思い切りねじって横を向いた。目頭から流れた涙が、橘の口づけた鼻梁をまた濡らした。死んじまいたい。唇だけをそう動かした。聞こえる筈はないと思った。聞こえなかったのだろう、橘はただ心底困った様子で黒川の頬を撫で、ぽつりと言った。
「好きだ。」
やたらな大きさで外の雨の音が耳に入った。お前は頭がおかしいよ、と黒川は「ひどい雨だな」と言うような口調で殊更はっきりと呟いた。