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秒針

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 コチッ、コチッ、コチッ……
 私は人生に三度、時計をじっと見つめつづけたことがあった。

 
 最初は、結婚まもない頃のことだった。
 初めての夫婦喧嘩。原因は取るに足らないようなことだったが、ぷいと出て行った夫の帰りを待って、私は時計を見つめていた。
 始めは、怒りにまかせて強気な思いで見つめた時計だったが、怒りが静まってくると、短い針が次の数字を指すたびに、不安と淋しさが募っていった。
 そして、ようやく玄関のドアが開いた。バツが悪そうに入ってきた夫の手には、私が大好きな洋菓子店の袋がぶら下がっていた。
 その姿を見て思わず駆け寄った私を、夫はやさしく抱きしめた。
 
 
 次に、時計を見つめたのは、娘が中学生の時だった。
 その頃、娘は反抗期の真っただ中、いつも家では不機嫌そうな顔をしていた。やがて、夜遅くにふらつき始め、素行に不安を感じた私は再三注意をしたが、娘は聞く耳を持たなかった。
 困り果てた私は夫から諭してもらうことにした。だが、それがいけなかった。火に油を注いだ結果となり、娘は激しい言葉を残し、家を飛び出して行った。
 しばらく様子を見ていたが、娘は戻ってこない。私は心配のあまり親しい友人の家々に電話をし、駅の周りを探し回った。
 何がいけなかったのだろう、どうすればよかったのだろう……
 思い悩みながら、夫婦で重苦しい時間を過ごした。長い針が次に真上に行くまでに帰らなかったら、警察……そんな覚悟で時計の針を追った。
 その時だった。玄関が開く音がした。私たち夫婦が駆けつけると、玄関で娘が下を向いて立っていた。
 あの時ほど神に感謝したことはない。私は何も言わず、ただ娘を強く抱きしめた。その娘の頬を伝う涙を見て、もうこの子は大丈夫だと私は確信した。
 
 
 そして今、私が横たわるベッドのわきに、夫と娘が寄り添って座っている。
 白髪が見え始めた私の髪を夫は優しく撫で、還暦祝いに旅行をプレゼントするから楽しんできて、と娘が言った。窓から柔らかな陽が射しこみ、穏やかな時が流れる病室で、私は時計の秒針を目で追っていた。
 人は誰もがそれぞれの時計を動かしている。そして、いつか必ず、その時計が止まる時がやってくる。
 先に止まる者は一見、可哀想に見えるかもしれないが、実は大きな特典がある。
 それは愛する人たちを最期に見つめることができることだ。そして、たとえ自分の時計が針を止めても、その愛する者たちの中で、時は刻み続けられる。だから彼らが生きている限り、自分も彼らの中で生き続けるのだ。
 私は、秒針がひとつ、またひとつ、と動くのを見つめていた。そして、愛に満ちた夫と娘の顔を見て、安らかな想いで目を閉じた。
 すると瞼の裏に、夫とふたり、宿の窓から水平線に沈んでいく夕陽を見つめている光景が浮かんできた。それは新婚旅行の時に心に刻まれた光景だった。だが、そこに聞こえてくるはずの潮騒の音は聞こえてこない。代わりに秒針の音が耳にこだましている。

 やがて、私の名を呼ぶ、いとしい人たちの声とともに、それはだんだんと遠ざかっていった。

 コッチ、コッチ、コッチ……

作品名:秒針 作家名:鏡湖