彼女は僕の心の雨を晴らせた
梅雨の時期、しんしんと雨が降る日。バス停の屋根が付いたベンチで文庫を読んでいる彼女をみかけた。長い黒髪、すらりと伸びた足、そして大きな瞳が目に焼き付く。制服から判断するに、私立中学校の三年生であるようだった。
そのバス停は閑散としており、彼女と二人きりでバスを待つ。
僕は普通バスを使わない。この日はたまたまだったのだ。僕は自分の傘をバス停前のコンビニで子どもにあげてしまっていたのだ。その子は傘を盗まれて泣いていたから。普段からそんなことをしてるわけではない。ほんの気まぐれであった。おかげでバスを使うはめになりはしたが。
この日、彼女に話しかけることはなかった。僕がしたことは目的地でバスを降り、彼女を見送っただけだった。
家に帰った後である、彼女に心を奪われていたと気付いたのは。僕はあの時に何もできなかった、しなかったことを大いに後悔した。
だが、しただけ、だった。
予感めいたものがしていた、彼女と会えるのは雨の日のバス停だけだと。実際、その通りではあった。
だから僕は、てるてる坊主を逆さに吊し、蛙を、蛇をいじめ続けた。
もちろん、それ以降に彼女をみかけることがあっても声をかけることなどできないでいた。
僕がしてきたことは、彼女がバスで読んでいた文庫のタイトルを盗み見て同じ本を探して自分も読んでみたり、鞄に書いてあるイニシャルから名前を想像するくらいだった。僕もバスで本を読むようになり、おかげで今では彼女が当時愛読していた夏目漱石だけでなく、同時期の作家である森鴎外など多くの文学作品に手を出して眼鏡の図書館通いになってしまった。
近付きたい、対等になりたい、そう思っていた。
危機感を覚えたときもあった。彼女はすでに受験生だったのを失念していた。そう、四月からは彼女を見られなくなってしまうのだ。
それに気付いたのは、三月末の春休み。悔しさに泣いた。何故、何もしなかったのか。彼女と同じ本を読んでどうなるというのか。ただ趣味が一つ増えただけだ。
僕に彼女がどこの高校へ進んだかなど知るよしもない。彼女と一度言葉を交わしてみたかった。その細く、白い手に触れてみたかった。春休みは泣いて、泣いて、泣きはらしていた。
気持ちもそぞろに新学年の時期。初日は雨、と良い日か悪い日かよくわからなかった。そう、僕が受験生になったときの話だ。頭が良いわけでもなかったので、あまり真剣に受験を考えたこともなかった。
しかし、考えざるをえなくなった、真面目に勉強せざるをえなくなった。運命を、感じた。
いつものバス停で彼女を見かけた。
初めて見たときよりも伸びている女神のような黒髪、非の打ちどころがない魅足、
吸い込まれて心奪われるその瞳。そして、何よりも驚いたのは身に纏うその制服。
彼女は近辺でもトップクラスの高校へ入学した。そしてそこは、バスの通り道に建つ高校でもあるのだ。
その時、僕の進路は唐突に決まったのだった。
今日はもう満足だ。話しかけられなくてもいい、仕方ない。そう思って新学期の再会は終わった。
どうやら僕は本当にやればできる子だったようだ。成績は異常なまでに上がった。
恋、とは素晴らしいエネルギーなのだなと思った。勇気を与えてくれることはなかったが。
変わらず雨の日に見かける彼女を励みに、僕は、彼女と同じ高校に合格した。
遂に彼女と同じ学校に通うことができる。これは僕にとって自身につながると思った。きっかけができる、学校でも彼女を見かけることができる。
しかし現実はそう甘くない。いや、問題はむしろ僕なのだろう。相変わらず何もできない何もしない、彼女を見ることしかできない。ただ話しかける、ただ彼女の気を引く。ただそれだけのことすらできない。なのに。
僕は昔から行動力も勇気もない。こんな僕は恋をしてはいけなかったのだろうか。本来なら彼女と知り合う努力をしなければならないだろう、彼女に好かれる努力をしなければならないだろう。しかし何一つしてこなかった上に、これからもするつもりがなかったかもしれない。それ、なのに。
高校一年時の六月、ある雨の中、下校中にあのバス停で、彼女と、言葉を交わしてしまった。
「これ、落としましたよ」
――どうしようどうしよう。いつも見ていたあの人に話しかけてしまいました。
あの人が落としたバス定期を拾った、ただそれだけのきっかけではあるのだけれど。二年前の六月、はじめて見かけた日から心奪われていたあの人に。バスで文庫を読んでいたあの人に。お近づきになりたかったあの人に。
勇気が出なくて、話しかけたくてもできなかった、雨の日にバスでしか会えないあの人に。
「ありがとうございます」
「いえ。ではまた。雨の日にでも」
ワタシは何を言ってしまったのだろう。また? 雨の日? 個人的にジンクスめいたことなのに、伝わるわけがないのに。気持ちの悪いやつだと思われてしまうかもしれない。
「ええ、いつものように」
――信じられない信じられない。伝わった、わかってくれた。それも柔らかな笑顔で。
あの人はその言葉だけを残して立ち去ってしまった。光陰矢のごとしというものを思い知った気がする。一瞬の出来事でした。
しかし話したいことはたくさんありました。ワタシがあなたを見てることに気づいていましたか? 本はお好きなんですか? いつもバスでカバーをかけて何を読んでいるんですか?
次に雨が降った日には、今日の勇気をばねに話しかけてみよう。あの雨の日、子供に傘を譲っていた心優しいあの人に……
そうだ、その前にもっと聞きたいことがありました。
――どうしようどうしよう。いつも見ていた彼女に話しかけられてしまった。
僕が落としたバス定期を拾ってくれた。ただそれだけのきっかけではあるのだけれど。二年前の六月、はじめて見かけた日から心奪われていた彼女に。バスで文庫を読んでいた彼女に。お近づきになりたかった彼女に。
勇気が出なくて、話しかけたくてもできなかった、雨の日にバスでしか会えない彼女に。
「ありがとうございます」
「いえ。ではまた、雨の日にでも」
――信じられない信じられない。彼女も僕を知っていてくれている、見てくれている。また? 雨の日? 個人的にジンクスめいたことであるはずなのに。それも暖かい笑顔でそれを言ってくれた。
「ええ、いつものように」
もう耐えられなかった。そそくさとにやけ顔の笑顔で立ち去ることしかできなかった。
しかし話したいことはたくさんあった。僕があなたを見てることに気づいていましたか? 本はお好きなんですか? 森鴎外も読まれますか?
次に雨が降った日には、今日の勇気をばねに話しかけてみよう。あの雨の日、静かなバス停で文庫を読んでいた彼女に……
そうだ、その前にもっと聞きたいことがあった。
空は、やっと晴れた。
『お名前を、教えてください』
作品名:彼女は僕の心の雨を晴らせた 作家名:裏表