謝恩会(中編)~手からこぼれ落ちる~
また母が泣き始める。けれどもう理性はどこにも残っていなかった。この腐った男から鍵を取り返す――そのことしか頭になかった。
何発殴ったかわからなくなった頃、男が湊人の体から逃れようと身もだえした。血まみれになった顔には、もう反撃の意思はなかった。男の手を開いて鍵をもぎとる。
皺と血にまみれた顔を見下ろしながら、湊人はゆっくりと立ち上がった。
男は情けない声をあげながら、はいずるように玄関から去っていった。
玄関扉の閉まる音が聞こえたとき、携帯電話の着信音が鳴った。『イン・ザ・ムード』の軽快なメロディが、室内の惨状と不釣り合いに鳴り響き続ける。
「電話……でないの?」
母にうながされて、湊人はようやくポケットを探った。「篠原健太」と表示されている。
湊人は画面をタップして、着信を切った。再びジーンズのポケットに押しこんで、床にへたりこんでいる母に歩みよる。
「もう男に鍵渡すとか……やめときなよ」
そう言いながら、母の手に鍵を握らせた。口の中に鉄の味を感じて、湊人は舌を出した。痛みをこらえながら腕を回し、指先まで神経が通っていることを確認する。
口の端を舐めとると、カレーの味がした。テーブルの上にはイチゴが散乱していた。
「湊人……ごめんなさい……湊人……」
母が何度もそうつぶやくのを聞きながら、家の中を片づけた。割れた食器や無残につぶれた料理を拾い集める。湊人がアパートに残していた荷物を詰める間も、母の涙は止まらなかった。
再び携帯電話が振動する。今度は電源を切った。尻ポケットに収めようとして、先に入れていた紙がくしゃりとつぶれる感触がした。
母が背を向けているのを確認して、紙を開いた。それは二日後に開催される『謝恩会のお知らせ』だった。卒業式の日にもらったそれを、湊人は母に渡せずにいた。今日渡す――はずだった。
皺になった紙を尻ポケットにおさめて立ち上がる。
「四月になったら下宿を出るつもりだったけど、取り壊しはまだ先だし、オーナーは急がなくていいって言ってくれてる。ここに戻ってくるかどうか……もう少し考えてもいいかな」
湊人は感情が顔に出ないように努めて、そう言った。「もちろんよ」と答えながら、母の涙は量を増した。
体の内側で爆発しそうになっている苛立ちがため息になって、湊人は頭をふった。
帰り際に母がイチゴを持たせてくれようとしたが「口の中が切れて痛いから、母さん食べてよ」と断った。
実家でまとめた荷物を積むために、ライトバンの後部を開ける。そこには明日のリハーサルに使う機材が山のように積まれていた。
サラの専用シンバルとスネアドラム、晴乃のベース用アンプ、悠里が使うギター用アンプとマイクのセット――
男の血がついたこぶしを見て、湊人は思わずそれをジーンズにこすりつけた。
初春の夜風が湊人に吹きつける。ひやりとした冷気が傷にしみて、湊人は眉をしかめた。
昨日まで星が瞬いていた夜空は、どこまでも暗く重く、傷まみれの体を覆いつくしてしまいそうだった。
作品名:謝恩会(中編)~手からこぼれ落ちる~ 作家名:わたなべめぐみ