11月 ムカデの夢
澪は丸顔に前髪を短く切り揃えた可愛らしいボブカットの外見ではあるのだが、どちらかと言うと我が儘でぶきっちょで、甘ったれで世間知らずな能天気な性格だった。そのくせ頭の切れる気紛れな猫みたいに掴み難く絡みずらい性格から、男子には憧れの眼差しを送られ、大多数の女子には眉間に皺を寄せられていた。
私はどちらかと言うと男っぽい性格だったので、澪とは特に無理もなく付き合えた。
週末の午前中だけの授業が終わると、澪はつかつかと窓際から中途半端に離れた2列目の一番後ろにある私の机に近付いてきて、向かいの席にいた気の弱いモヤシ男子を当たり前のようにどかせるとそこに座り、ペットボトルのお茶が出してあった私の机の上に鞄からポッキーを出して広げ、それを摘みながら頬杖をついて寄り掛かった。
澪の耳たぶで反射して形を判別出来ないくらいに光っている校則違反の銀のピアスがいやに目につく。
「ねえ、吹雪ちゃん。なにか面白い事なーい?」
澪は丸顔に念入りにアイメイクした、ただでさえブラシのような睫毛が更にばさばさになった目を瞬かせて、筆にピンク色をつけて一息に線を引いたような薄い唇でかったるそうに聞いてきた。
「別に」私はあまり仲の良くない友達から貸してもらったあまり面白くもない漫画を流し読みして捲りながら答えた。
「あたし、春休み、退屈で退屈で死にそうだったのー まだ引きずってる感じ」
「そう」
私が興味無さそうに答えたのが気に入らなかったのか、澪は持ち前の意地悪い部分を発揮してポッキーで私の乾いた口元をつんつん刺してきた。
「吹雪ちゃんって、いっつもクールフェイスだよねーポッキーで言うならメンズポッキーってやつ。時々羨ましいけど、刺激なさ過ぎて、なんかつまらなさそう」
「・・・そうでもないけど」
私はそう言って、口元に突き刺さったポッキーに噛み付いた。その拍子に手首の包帯が見えてしまったらしい。澪が間髪いれずに突っ込んできた。「なにそれ!どうしたの?」
私は特に隠そうともせずに、次のポッキーに手を伸ばした。
「ちょっとね」
「まさか・・・噂のリストカットって、やつ?」
「んーー まぁね」
澪は白目の面積が多い目を大きく見開いて、興奮して聞いてきた。
「どうやってやったの? 痛くなかった? てか・・・どうしてやったの?」
私は教室を見回した。もうほとんどが帰っていたので、残っているのは部活の子と、暇してる私達くらいで、特に誰も澪の大声を気にしてないみたいだった。
私達は暇してるくせに、部活で汗をかくのもかったるいと相違一致した帰宅部2人だった。
仕方なく、次のポッキーを一気に2本取り、恐らく全く聞かないだろう澪に、声がデカイと注意しながら溜息混じりに軽く頭を掻いた。澪はすぐに大袈裟な表現をするから、そこがうっとうしかったのは事実だった。
「別に・・ただムシャクシャしたから。生温い周りの態度にうんざりしてたのもあるし。切ったのは普通の剃刀。頭にかなり血が上ってたから痛みは、覚えてないな」
澪はまるで食い入るように包帯をした手首を見つめている。多分、中のムカデを見たいんだ。その目は憧れているなにかを見ているような、そんな奇妙な輝きがあった。
「へぇ。吹雪ちゃんって、冷めてるように見えて、やる時はやるんだねー」
それがどんな意味で言っていたのかわからなかったが、私は澪のやけに輝いている瞳を覗き込んで、眉間に皺を寄せながら言った。
「なに考えてんだか知らないけど、私は運良く死ななかったんだよ。普通なら今日の始業式で私の黙祷してる」
「けど、派手に血が出る割には、なかなか死ぬ確率って少ないらしいじゃん。だから、流行ってんの」
派手に血が出る割にはと言うフレーズに些かむっとして、私は乱暴に聞いた。
「へえぇー 流行ってるって、リストカットが?」
「援交に続いて影のブームだよ。ほら、あれって別に外見関係なく誰でも出来るじゃない。それに案外言えないストレス多いし。10代って」
私の態度には関係なく、澪はまたひとつポッキーを取って、タクトのように振って説明しながら、ふと気怠そうな表情に戻って、溜息みたいに投げやりな調子で言葉を継いだ。
「みんな色々、自分の存在価値がよくわかんないんだよ。きっと」
私は首を回して教室の大きな窓から見える、眩しく反射する青い空を見遣った。
校庭脇の桜が若葉に混じり残っている花弁を気紛れに吹いてくる風に時々投げつけていた。
「確かに、どうして生きなきゃいけないのかって不明に思うときは、しょっちゅうある」
澪はそれには何も答えなかった。ただ、魂の抜けたような表情で、ポッキーのかすが埃のように散って、メーカー名とポッキーが斜めにどこまでも印刷された銀色の鏡みたいな無惨に破けた袋をぼんやり見つめて、かったるそうな小さな生あくびを1つしただけだった。細い髪の間からピアスが代わりに返事をするようにまた強く反射して私の目を射った。
窓の外に広がる無秩序に生える花壇を超えた校庭から、野球部の硬球を打ちあげる音叉に似た乾いた吸い込まれるような音が聞こえる。
吹奏楽部の管楽器の少し調子外れの音程練習も混じっている。
昼の強い日光で温められた教室中の埃とチョーク混じりの変な匂いが生き物のように漂い始めた中、まるでなにか学校を題材にした風景画かなにかのように、私達はしばらくそうしていた。
4
「おはようございます。ガイドが急病の為、急遽代行といたしまして私、桃井早太郎が本日一日皆様のガイドを勤めさせて頂きます。せっかくのバスの旅の付き添いがどうして女性じゃないのかと憤慨のお気持ちもおありかとございますが、なにとぞどうぞ宜しくお願い申し上げます」
そう前置きして、ガイドの腕章を巻いたブルドッグに似た小男は、上品な角度で乗客に向かってごく丁寧にお辞儀をした。
夫が真っ先に満面の笑みで拍手をした。それにつられてチラホラと一応形式的な拍手が上がった。桃井さんは些か赤面したような表情にも見える位置に眉と目を弛めたが、すぐに引き締め直して北海道の歴史云々から簡単に説明を始めた。
「桃井さんなら、まずガイドのストレスはないな」夫は私の髪を指に絡ませて呟いた。
「そうかしら?」
「そうさ。彼は間違っても頭の悪い人間みたいに、くだらない世間話や寒いジョークなんて備えてるような奴じゃない」
「そんな事わからない」
「わかるさ。彼の声を聞けば。肝心なのはどういう事を言っているかじゃない。どんな声でどんな風に言っているかなんだ」
果たして夫は、桃井さんの事を人間と思っているのか犬と思っているのか訝しいところだった。夫にしてみればどっちであろうとあまり関係ない事なのかもしれないけれど。
桃井さんの品のいいBGMのように流れてくる説明や解説の声を心地よく聞きながら、おとなしくシートに張り付いている乗客を乗せたバスは、旭山動物園に一心不乱にひた走っていた。
大きな窓から見える景色は山林ばかりで、今にもひょっこりと熊だの鹿だのが顔をあげそうな情緒たっぷりだった。動物飛び出し注意の鹿が跳ねている標識もまた、そんな気分を盛り上げた。