11月 ムカデの夢
自分という存在は自分が思うよりもずっともっと大きくて、誰かの任意で、または自分の身勝手で簡単に失くしてしまえるものではないのだと。好きな人が1人でもいるなら、そう思うべきだったのに。結局、私は自分の事すら見てなかったのかもしれない。自分の事を好きにすらなれず、大切にすらできなかったあの頃の愚かな頭でっかちな私は、何様のつもりでいたのだろうと恥ずかしくすらなった。自分で自分を大切にするのが嫌だったら、誰かの為に自分を大切にする事なら出来たのかとも思ったが、そもそも誰かに好かれるのが当たり前だと思っていたらそんな事すら思いつかなかっただろうな。どちらにしても、馬鹿な私が手探りで辿ってきた道としてはなんだか妥当な気もした。いくら考えてみても、私にはあれ以上の違った道も方法も見つけられなかっただろうし。でも、だからこそ、今こうしていられる事に幸せを感じる。いや、幸せを感じさせるような強烈な事があったからこそ、改めてそう実感している。いかにも捻くれた私らしいやり方。あのままぐるぐる巻きに封印していたとしても、何の解決にもならなかっただろう苦いばかりの記憶すらも、これからの人生の意味を持っていたなんて。
自分の命を粗末にしていたくせに、こんな歳になるまで、そんな当たり前過ぎる事に感謝なんて感じた事なかった。目の前で眠気覚ましに顔を洗っている無邪気な夫を眺めながら、なんだかそんな事を思った。澪も何処かでそんな当たり前の小さな気付きをこうやって何気ない日常の中でふと感じていて欲しい。烏滸がましいながら私は窓辺に向かってそう祈り視線を投げた。
ロビーでは桃井さんが忙しそうに駆け回って、面倒臭さそうな中年のおばちゃん客の相手をしていた。私達に気付くと、少し笑って深々と丁寧にお辞儀をして落ち着いたいつもの声で見送ってくれた。
「お気をつけて、行っていらっしゃいませ」
私と夫は手を繋いで、目星をつけて行こうと思ってた店まで碁盤のようなビル街をのんびりと歩いた。
小さく覗く夜空には鎌のような黄金色の細い月がかかっているらしく、隙間を出たり隠れたりしながら2人の後を追いかけてきていた。
私はその月を眺めながら改めて澪の事や祥二の事を思い出し、そして隣にいる夫を見た。夫はいつものように口角をほんの僅かに上げているだけの真顔だったが、何処かしら以前より安心できるようなどっしりとした余裕が感じられた。
「・・・ごめんね」
夫の横顔に呟くように謝った頼りなく吐き出された私の言葉は、不意に吹いて来た風に飛ばされあっと言う間にビルの隙間に消え失せた。顔を覆った邪魔な髪を左手で掻き分けながらふとムカデを見ると、さっきの風と一緒に飛ばされてでも行ったのだろうか、私の手首にいた筈のムカデは抜け殻のように薄くなり、ほとんどわからないくらいになっていた。
「あそこあそこ。半端なくうまいんだって!」
はしゃいだ子どもように駆け出した夫の手に引っ張られて、私たちは暖かなオレンジ色の灯りが漏れる店の扉を開いた。