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8月 夏の痣

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見上げれば、いつもそこには抜ける様な透明な青空は広がっている。
 だのに、どうしてか私の足下にはいつまでも雪が残っていて、無防備な素足に透明な針を幾つも突き刺してくる。赤く膨れ上がった霜焼けの足は一歩事に酷く痛み、思うように進む事を拒む。私はそれでも立ち止まる事を許されはしない。歩き続けるしかない。
 もう彼はいない。
  私が大切にしていたあの人は、何処かに誰かと逝ってしまった。
 私達は最後まで愛し合う事もなく、憎しみ合いお互いにすれ違ったまま別れてしまった。

 アスファルトから立ち昇る陽炎の中、彼と手を繋いだまま何処までも歩いて行けるような気がしていた。彼の手は私の手に負けないくらい汗っかきで、だから気兼ねなんてしなくて良かった。
 同じような背格好と同じような手の大きさ。それに同じような性格と、同じようなぶきっちょな人生の歩き方。色んな所が似ていて、だからこそ他人に思えなくて、下手したら恋人と思えない事もあるくらい何だか近い私達。きっと気持ちだって同じでなんて、勝手に思っていたんだ。いや、それすらただの蜃気楼だったのかもしれない。暑い夏だった。そればかり印象に残っている。
 本当はひどく臆病で、怖がりな彼の本当の姿に、そうじゃない自分でありたい彼に隠れてしまっていた事に。一番近くにいたのに、気付けなかった私。見ようとしなかった私。もしかしたら、気付いていたけどそう思いたくなかったのかもしれない私。無関心を装ってしまった私。彼の言葉を信用して。一体、何を夢みていたのだろう?
 ドラマや小説のように男だから、女だからなんて下らない型に嵌りきっていて、現実の自分達を見なかった。彼を見なかった。怯えている彼の不安を真剣には取り合わなかった。私だって不安だったから。似た者同士は、こんなところでも同じように不安になって、交互に怖がるを繰り返す。なんて、なんて滑稽な二人だったんだろう。しかも二人して、お互いに解り合っているなんて傲慢な事を思ってしまっていて。所詮は他人なのに。己の事すら怪しいのに、解り合える筈などない。恋人同士のくせに、愛しているなんて愛の言葉すら言い合う事もせず、あんなに飽きる程一緒にいて何の言葉を交わしていたのだろう?何の話をしていたのだろう?
 私は本当は何処かで気付いていた。私と彼は似合わないと、何故だかいつもぼんやり思っていた。どうしてなのかはわからないけど、二人で映る写真を見ても、街でショーウィンドウに映った二人を横目で見ても何だか違和感が付き纏う。いつもいつも。姉と弟みたいな感じがして、どうしても彼が子どものように見えてしまう。だから、そうじゃないでしょ?とか男らしさとか、そんなくだらないものを無意識のうちに彼に欲求していたのかもしれない。私は本当に彼の事が好きだったのだろうか。わからない。
 私は家族や友達や仲間が好き。皆に支えられて助けてもらって生きているのがわかるから、誰かが困っていたら私も精一杯で助けてあげたい。それで、その誰かが助かれば、自分は犠牲になっても構わないとさえ思っていた。彼にもそうだった筈だった。だけど、自己犠牲は自己満足だった。私は誰かに助けてもらった弱い自分でも、誰かを必死になって助ける事で自分も誰かを助けてあげられる凄い人なんだって、自分を満たそうとしたのかもしれない。そんな必要なんてなかったのに、私は私で良かったのに。
 私は彼と付き合っている時に、そうありたい自分をきっと演じていただと思う。優しくて、女らしくて、意思がしっかりとしていて理想の女性像のようなものを勝手に作り上げて、そうあろうとした。彼もそうあろうとした私だけを見ていたんだと今ならわかる。でも、私はそうなれなかった。彼の予定は大きく外れた。私は彼に叩かれたり、引きずられたりしても、それでも優しくあれなかった。
 嫌いだった。本当は心底嫌いで、憎くて憎くて堪らなかった。
 幸せそうに笑う彼。紛れもない真実。だけど、脆く見えてしまうのはどうしてなのだろう。
「俺は一緒にいられれば、それでいいんだ」と、望みを訊くと答える彼。嘘だ。全て嘘だった。彼は恐ろしく危うくて、それを制御出来なくて、終いには私を疫病神と呼んだ。一緒にいたいと宣ったその口で、俺の人生はお前のせいで終わったとそう口走った。いや、ことある事に強くそう訴えた。必ず後で、そんな事思っていないと謝るくせに、些細な事で何かがある度に、何度も何度も同じ事を繰り返す。お前は疫病神だ。お前の頭はおかしい。どうかしてる。気違い。お前のせいで、俺は・・・俺は・・・俺は!俺の人生は!
 私は、自分にされた同じ分の甘えを彼に求めていた。けれど、それは叶わなかった。叶う筈なんてなかった。彼には私を甘えさせる余裕等これっぽっちもなかったから。歌の歌詞のように夢や理想の恋の相手は、今付き合っている彼だったのに、彼はそれすらも許さず、全てを壊した。どんなにか、心置きなく自由に付き合う事を望んだかなんて、いくら叫んで訴えてもわかってはもらえなかった。理解されない事が悲しくて、彼を有りの儘に受け入れられない自分が情けなくて、どうしてなのかt自問自答を繰り返す。そんなに憎いのなら、私を嫌いだったら別れれば良かったんだ。泣いたり等せずに別れたかった。必死になって愛情らしき物をいつも探して、そんな事ただの時間の無駄で、なんの意味もなかった。全てを悔い、しがみついてしまっていた自分の弱さを呪いたい。


 ふと、我に返る。ここは・・・何処だっけ。鶺鴒が前を横切るのを目で追って、しばらく呆けて思い出す。そうだ。今は凍てつく様な冬。透明な青空が広がって、日差しが強く風が冷たい2月。時間が経ったんだと思い出す。彼に引き摺り下ろされた左足の痛みはまだあるけど、大丈夫。もう彼とは別れたんだった。手を上げられても、蹴られても、引きずられても、逃れられずに完全に依存していた。私だけじゃない彼も、共依存だと思っていた。でも、違った。彼の心はとっくに離れていた。だのに、私を痛めつけ続けた。性欲が溜まった時だけ、御機嫌取りみたいにセックスをして。愛してるなんて口走って。嘘だった。全部。愛していたのはセックスだった。彼自身だった。私じゃなかった。私の存在なんて何処にもなかった。憎かった。殺してやりたかった。死ねばいいと思った。それでも自我で自制して、無意識に溜まりまくった殺気は露出して、一度だけ彼の太くて丈夫な首を絞めた。渾身の力を入れても殺せるわけはなかった。だのに、不思議と死にたいとは思わなかった。ひたすら、どうしたらいいのかなんてお気楽な事を考えていた。現実逃避もいいところだ。本当に愚かだった。そして、気付いたら私に残ったのは痣だらけでボロボロになった体と、痩けた顔だけだった。
 小さく溜め息をつく。真っ白い吹き出しみたいな息が出た。私は生きている。彼を殺さなかった。鶺鴒が再び私の様子を伺うようにして、時々止まって躊躇しながらけれど早足で横切っていく。
 時が早く過ぎてくれればいいと思う。それで、幾らかでも癒されていくのであれば。それしか救いはないだろう。腕の痣に手を置いて目を瞑る。わかってる。私は歩き続けるしかない。
作品名:8月 夏の痣 作家名:ぬゑ