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富士樹海奇譚 見えざる敵 上乃巻

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三、猟師小屋


https://www.youtube.com/watch?v=R8MMqPOk7uU
Dorje Jigled (Tibetan Tantric Choir)

夜が明けて尚、森の中は暗く、道無き道を進む一行は、遅れを取り戻すべく歩を早めていた。朝の鳥たちが、虫たちが鳴き声をあげ森の中は音にあふれた。だが火山灰の大地がその音の大半を吸い取っているように、張り詰めたような緊張感が森には漂っていた。
木漏れ日の中、蔦の繁る崖の奥まったところに猟師小屋を見つけた先導の欣三は、音を立てずに小屋に近づいていた。斥候の健四郎が首を長くして待っているはずだ。いつものように悪態をついてくるに違いない。
“いったいいままで何処をほっつき歩いていたんだ?首を長くしてろくろ首になっちまったような気分だ、ったく、待ちくたびれちまって、先に飯も喰っといたからな。欣三、お前が着いていながら、まさか道を間違えたんじゃなかろうな。これだからお前ってやつはいつまでたっても斥候の役目は任せられんのよ。いくら足が速くても、違う場所に行っちまったら意味が無いものな“
飯を食う速さと口数の多さでは健四郎には勝てない。義理の舎弟分のくせに大口叩いて、口の悪さもかなりのものだが、人懐っこさを醸し出す笑顔で憎めない男だ。そして斥候としても敵の裏の裏の行動も掴む知恵の廻る男だ。あの辺は俺には勝てないと欣三は感心していた。その健四郎が待っている小屋に近づいて、戸を開けようとしたとき、妙な胸騒ぎがした。気配というものを感じないのだ。健四郎は小屋の中にはいない。健四郎に限って道を間違えることもないだろうし、既に隠し砦の様子も探っている手筈だ。だがこの小屋の中にいる気配を感じない。欣三は、言葉にならないような、しかし森に入ってからずっと感じ続けている不穏な空気の“存在”に恐れを抱いているのを心のどこか、奥底の方に形作られているのを思い知った。健四郎の身に何かあったのか_?

小屋の前で立ち尽くし動こうとしない欣三の姿を見た熊一は手信号で、全員に身を隠すように指示をした。いったいなにがあったのか。欣三はなぜあんなに緊張しているのか。
意を決したように引き戸を開けた欣三が中を確認して、熊一に手招きをする。それを受けて熊一が全員に手信号を送る。源吾が警戒しながら歩を進めるが、安田はなにも気に留めることなく立ち上がった。そのとき錦七が源吾に口走った・・何かが笑った・・
源吾が手信号で警戒を促すと、辺りが静まり返った。
馬鹿馬鹿しい・・安田は鼻で笑いながら、小屋に近づいていく。
安田の横柄な態度に、一瞬気づいた何かの痕跡を錦七は追えなくなってしまった。
くそっ!錦七は毒づいたが、熊一は見えぬ天を仰いで唾を飲み込んだ。
小屋の引き戸を開けたまま、凍り付いたように中を見ている欣三の肩を熊一がそっと叩くと利き手の左手で囲炉裏の脇を指さす。
黄色いウコンの色に染められた米粒が三つ。仲間内では黄色は“要警戒“を現わし、その粒の数三つは最大級を示している。つまりは”健四郎が敵陣に探りを入れてこの小屋まで戻り要警戒をるように伝えている“ことを示す。色つきの米は他にも黒、赤、青などにも色分けされ忍びの者の連絡手段として使われていた。
熊一は無言のまま一同に“警戒の上、散開“と手信号を送ると、欣三の肩を軽くっ叩いてねぎらう。だが、欣三は声も出せないほど、凝り固まっていた。
「黄色い米は持っていても、使うことはなかったじゃないですか、いままで。」
熊一は欣三が震えているのを感じる。この暑い夏に。しかも相当な量の汗をかいている。
だが冷や汗なのだろう。欣三が何かに途轍もなく恐れ慄いている。
腹を空かせた源吾が干飯に手を付けようとしたとき、背後で錦七が甲高い声で熊一を呼ぶ。
「なにかがちがうんだ。」
辺りの樹木を見回すが、確かに虫の声も鳥の声もしない。
まるで息をひそめているように。
「皆の者、気を引き締めぃ」静かに熊一が云うと吟次が後ろを振り返りながらゆっくりと、忍刀(しのびがたな)を抜く。脇差よりひと回り長い直刀を忍びの者たちが好んで使っていたのを真似して村の鍛冶屋である吟次の父が作ったものだ。幾度目かの桶狭間の合戦の後、転がっていた夥しい数の死体の中から、戴いたものを改良した。狭い場所や接近戦に備えて大振りな刀は却って使いにくい。大柄な体躯の吟次や源吾でさえ、狭い中で動くことが出来るように訓練して、この大きさが丁度よいという結果に至ったのだ。錦七を背後に背負う源吾だけは忍刀に頼らず鎖をつけた忍び鎌を使うことに長けていた。それは背後の錦七を守らねばならないという条件に加え、長槍では狭い空間では戦えない。そのため長さが自由に変化できる鎖鎌を習得した。だからといって源吾はこれでなかなかの忍刀の使い手で、吟次の練習相手を務めるほどの腕前だった。
風向きが変わり、不穏な空気を感じた錦七が甲高い小声で源吾に云う。
「これは、血の匂いだ・・。」
一同は戦慄した。歩を進めるにつれて血の匂いが濃くなってゆく。
辺り一面、血の匂いが立ち込めている。
最悪な結果を予感したのか欣三が歩を止めてその場にうずくまった。
吟次が小屋の裏の藪を前に立ち止まると、何も気にしないような安田が無造作に藪に分け入る。枝葉を振り払おうと自慢の大刀を振りあげ、えいっ!とばかりに振り下ろすと枝葉に隠れていたものがドスンと音を立てて目の前に現れる!
息をひそめていた虫たちが鳥たちが一斉に騒ぎ出す!
そのあまりの衝撃に安田は腰を抜かし声も上げることも出来ずに後ずさりする。
熊一は一度背後の森に目を移し冷静さを保ってから、目を戻した。
古い樹木の太い枝から吊られた全身の皮を赤剥けにひん剝かれた人間の死体が四体。
その腹部は切り裂かれ臓物が垂れ下がっている。
その一番前に吊られているのは、健四郎に相違なかった。
欣三は嗚咽を上げた。誰も止めることが出来なかった。
吟次は膝を落とした。
「今川の野郎共め、なんてことをしやがる!奴らめ、皆殺しにしてくれる!
源吾は鼻をすすり、おいおいと泣きくずれた。錦七を下ろすと傍らにあった枝を造作して鍬状にして穴を掘り始めた。
安田は立ち上がり、その光景を見ると途端に騒ぎ出した。
「おいおい、まさか穴に埋めるつもりじゃなかろうな、そんな暇はないぞ、こんな酷い事をする奴らだ、御世継様の命が危ないぞ!先を急がねば!」
だが誰も安田の言葉に耳を貸すものもなく、熊一も穴を掘り始めた。
欣三が毒づいた。
「ならさっさと手伝えよ。埋めるまで、ここから先にはいかないぞ。」
吟次も怒りを発散させるように黙々と穴を掘る。
「畜生め、畜生め!あれじゃまるで獣の餌じゃないか、あれじゃまるで鳥の餌じゃないか!今川め!今川の畜生共!くそったれの外道ども!ひとり残らず皆殺しにしてやるぞぃ!」
吟次は体の中からほとばしるような怒りを抑えこもうと、その手を早めた。
熊一も冷静を保とうと必死に掘ったが、四人分の遺体を埋める穴を掘るのはひと苦労だった。錦七は何かを探るように、森の中を探るように耳を澄ましていたので、暇を持て余した安田が声をかけようとすると、ひとこと「黙れ。喋るな。」と言い放たれてしまった。