委任状
その日、俺はビルの屋上に立っていた。仕事に行き詰まり、家族には相手にされず、もうすべてが嫌になっていた。
こんな人生、終わりにしてやろうか……そう思い手すりから身を乗り出した。もちろん本気ではない。ただちょっとそんな真似をしてみたくなっただけだ。ところがその時、急に吹き付けてきた風にあおられてバランスを崩した。はるか下に街路樹が見えた俺は、必死に体を立て直そうとした。
その時だった。どこからともなく声が聞こえてきた。
「おうおう、命を粗末にするなんてもったいないことを」
「いや、違うんだ。急に風が吹いて……とにかく助けてくれ!」
「そう言われても、もうお前の体は宙に浮いているからな」
気がつくと、確かに俺の体はもう建物とは接触していなかった。
「お願いだ! 死にたくない! 元の暮らしに帰してくれ!」
「その暮らしが嫌で、こうなったのではないか?」
「それはそうだが、とにかく死ぬのはイヤだ!」
「わかった、命は尊いものだからな。わしに委任状を預ければ助けてやる」
「なんだ、その委任状って?」
「すでに投げ出されたお前の命を救うには、それが必要じゃ」
「なんて書けばいいんだ?」
「そんな時間はない、わしが書いておく」
「白紙委任状なんて冗談じゃない!」
下を見ると、もう路上の街路樹が間近に迫っている!
「わかった、何でもいいから助けてくれ――!」
気がつくと、俺は屋上の手すりに背中をもたれて座っていた。
(何だ、夢か……)
俺は立ち上がって、昼休みの屋上を後にした。
いつものように不機嫌な一日を終え、社を出ると、街路樹の根元に光る物が目についた。拾い上げてみると、午後からずっと探していた俺の社員証だった。ぎょっとして俺は上を見上げた。そこには昼休みに俺がいた屋上があった。あの時、落下した時に落ちた――
まさか……でももしそうなら、委任状が存在しているということか?
家に帰るといつもの冷ややかな空気の中で、家族それぞれが自分たちの世界に籠っていた。
俺はベッドに入って考えた。今俺が死んでも、この家では誰ひとり悲しむ者もなく、あの会社では誰ひとり困る者はいない。あの時、死ななくてよかった――
そして、俺は翌日から、文字通り生まれ変わった。
冷たい視線を跳ね返すように、明るい笑顔で家族に話しかけ、それぞれを気遣い、悩み事にはともに心を砕いた。
会社では、仕事のことではひるむことなく上司に意見を言い、部下のミスは自分のこととして対処した。
こうして歳月は流れていった。
やがて、子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、孫を連れて遊びに来るようになっていた。
「父さん、明日、いよいよ定年だね」
「本当、長い間お疲れ様でした」
家族みんなに労われ出社し、部下たちみんなに惜しまれながら退職した。
いいサラリーマン人生だった――
感慨深い思いを胸に社を出ると、上からひらひらと一枚の紙が舞い落ちてきた。足元のその紙を拾い上げると、それはなんと、委任状だった。俺は驚いて上を見上げた。そしてその先に屋上が目に入ると、あの遠い日のことが鮮明によみがえってきた。
委任状には、俺の署名が添えられてこう書かれていた。
『一度捨てた私の命を あなたに託します。
あなたがいいと思った時に 私を召してください』
俺は、その場で倒れ、この世を去った。
温かい家族や多くの社員たちの涙に見送られて。