天中殺
天が味方しない時……まさにあの日は俺にとって天中殺の一日だった。
それは朝一番から始まった。
かけたはずの目覚ましが鳴らなかったのだ。俺が目覚めた時間は、いつもなら電車に乗っている時間だった。
まあ、慌てても仕方がない……
ボーっとした頭で、遅刻の理由を考えようと思った時、俺は怖ろしいことに気がついた。
今朝は、朝から重要な会議があったのだ! それも、その資料を用意するのは俺の役目。入社して五年、初めて任された大任だった。俺は一気に目が覚めた。そして思った。
終わった……
肩を落としたその瞬間、なぜか俺の頭に「天中殺」という言葉が浮かんだ。
ところが、神に見放されたはずの俺に、救いのメールが届いた。それは同僚からで、俺の使っている路線が車両故障のため始発から止まっているが大丈夫か? というものだった。
俺はすぐにテレビをつけた。そこには、駅にあふれ返る通勤客たちの様子が映し出されていた。
助かった……
俺は、昨夜遅くまでかかってそろえておいた資料の場所を同僚にメールし、別の交通機関を使ってなるべく早く行くようにする旨を伝えた。これで何とかなる、俺は急いで家を出た。
かなり遠回りとなったが、俺はなんとか会社に向かう電車に乗り込むことができた。とはいえ、凄い混雑である。しかし、運のいいことに、途中の駅でちょうどまん前の席が空き、俺は座ることができた。
そして、やっと心身ともにホッとした。会議に遅れる言い訳もできたし、同僚に頼んで手筈も整えた。これならたいしたマイナスにはならないだろう。目覚まし時計を見た時の地獄から解放され、俺は生き返った気分だった。
そんな余裕からか、俺は前に立っている男の動作がおかしいことに気がついた。超満員電車である。近くに女性がいる男たちはみな、痴漢に間違えられないよう、手を上にあげている。その男もあげていたのだが、よく見ると、袖口のボタンに隣の中年男の髪が引っかかっているのだ。そして、電車が揺れるたびにその中年男の髪全体が不自然に動く。間違いない、あれはかつらだ。
かつらがずれていることに気づかずすましている中年男と、必死にそれを外そうとしている気の弱そうな若い男。そんな光景を目の前にして笑わずにいるのは難しい。いや、苦しい。ここにも天中殺のヤツがいた、俺は必死に笑いをこらえた。
目的の駅も近づき、そろそろドアに向かおうと思った俺は、さりげなく立ち上がり、そして、武士の情けだ、そっと外してやろうと手を伸ばした、その時だった! 電車が激しく揺れ、俺は大きくバランスを崩した。
気づくと、俺の手には中年男のかつらが握られていた。禿げ頭が丸出しになったその男は、烈火のごとく怒り、隣の男は俺の真意に気づいたのだろう、申し訳なさそうに下を向いている。俺は、中年男にかつらを返し、ひたすら謝りながら思った、やはり天中殺は俺の方だったのだと。
そんな災難を乗り越えて、なんとか会社に着くと、もうすでに会議は終わっていた。
俺は上司に遅刻の経緯を説明し、会議に出席できなかったことに頭を下げた。同僚から事情は伝えてもらってあったし、そろえた資料に不備もなかったため、お咎めはなしだった。でも、なんとなく今日はこれで済むような気がしなかった。きっとまだ何かあるに違いない。油断は禁物だ。
仕事を終えた俺は、今朝の埋め合わせに同僚を飲みに誘った。本当は今日ではない方がいい気もしたのだが、借りは返せる時に早く返した方がいい。
ふたりで入った居酒屋は満席だった。あきらめて出ようとすると、店員にお合席ですがどうぞ、と呼び止められた。合席はどうも、と思いながらも振り返ると、そこには若い女性客ふたりがいた。同僚は喜んで、その席についた。
ほどなく四人は盛り上がり、帰る頃にはしっかりとペアが出来上がっていた。同僚は彼女にメロメロ、俺もペアの彼女がかなり気に入った。
でも、おかしい。今日は朝からイヤなことばかり。こんなことが最後に待っているはずがない。横から怖いお兄さんでも現れるのではないだろうか? 俺はなんとなく落ち着かなかった。とは言え、彼女の魅力には到底勝てそうにない。
それぞれが家まで送ることになり、俺たちは二組に分かれた。彼女とふたりきりになったが、怖れていた怖いお兄さんは登場しなかった。天中殺もここまでか、と油断したその時だった。家の近くまで来た彼女が前を歩いている男に声をかけた。
「あら、お父さん!」
振り返った男は、なんと! あのかつらの中年男だった!!
天中殺うぅ――!!!