分かち合う悩み
川原で釣りをしていた。でも、全く釣れなかった。それはそうだ、釣ろうと全く思っていなかったのだから。
何度溜息を吐いただろう。私がここで釣りをしている理由はただ物思いに耽りたいからだった。物思い、と言えばまだ優しい響きだが、煩悶に近かった。煩悶でもまだ生温い。本当に大きな葛藤を私は抱えていたのだ。
妻と別れたショックで私はただただ頭が混乱していた。このまま川に入って死んでしまおうか、と少し思った。でも、そんなことを考えても全く意味のないことで、これでは悔しくて死にきれないだろうな、と思った。
釣竿を握ったまま、くそ、とつぶやきを零した時、ふと背後から誰かのひっそりとした足音が近づいてきた。私はそれ程気に留めず、川面をじっと見つめていたが、そこでその気配がすぐ傍らまで近づいたことに気付いた。
「釣れますか?」
振り向くと、そこには頭が真っ白で痩せ細った老人が立っていた。彼は皺だらけの顔をさらに皺一杯にして笑っていた。その眼差しが柔らかなものだったので、私は少し警戒心を解いて言う。
「全く釣れませんよ」
「隣に腰を下ろしてもよろしいでしょうか?」
私が返答する前に老人は少し私と距離を取って、堤防に腰を下ろした。
すっとその細い顔がこちらに向き、少し真剣な表情で老人が言った。
「何か、思い悩んでいらっしゃったでしょう?」
私は大きく目を見開いた。
「わかるんですか?」
「はい。はっきりとわかりました。何故なら、私も五十年前、そうでしたから」
老人は骨の形が浮き出た膝にぽんと手を置いて、初夏の風を額に受け止めながら、苦笑して語った。
「ここであなたと同じように黄昏ていたんです。私はその頃、妻と別れて仕事も辞めてしまい、生き甲斐もなく、死のうと思っていました。本当に人生のどん底にいるような気がして、ここで川をじっと見つめながらそんなことを考えていたんです。するとそこで、一人の老人がやって来て、私に自分の身の上話を長々と語ったんです」
老人の目はさらに遠くなり、その情景を鮮やかに頭の中で描いているようだった。私は彼の懐かしそうな顔を見て、少しだけ胸の遣えが溶けたのを感じた。
「それで、私、自分だけじゃないんだな、って思えて。少しだけ、ほんの少しだけですが、気が楽になったんです」
老人はそう言って、私の肩にぽんと手を置いた。そして、目を糸のように細くさせ、言った。
「だからあなたも、どうか自分だけとは思わず、元気を出してください」
私は彼の曇りのない目を見返しながら、長い間じっと言葉を失った。やがて、どこか震える喉から言葉を零した。
「確かに、思い返してみれば、嫌なことばかりでしたが、自分だけではないんだな、って思えてきたような気がします」
「そうですか。あなたが楽になったら、本当に良かった」
老人はそっと立ち上がると、もう何も言わず、私に背を向けて去っていく。背中で手を組んでおぼつかない足取りで歩いていく老人の後ろ姿を見ながら、私もまた歩き始めようかな、とふと思えてきた。
まだショックは残っていたが、老人の言葉が胸に染み付いているような気がした。
五十年後、私は何年かぶりにその川に来たのだった。この川原も大分様子が変わってしまったな、と思う。どこまでも逞しく生え茂っていた雑木林は切り拓かれ、そこでは今、バーベキューをする家族連れで賑わっていた。
堤防の道をずっと歩き続けていると、あの場所がふっと見えてきた。そこだけは昔と変わらず、まだひっそりと残り続けていた。
私はその堤防に腰を下ろし、ぼうっと川面を見つめる若者の姿に気付き、そっと近づいていった。彼は釣竿を動かさずに、微かに震えていた。私はふっと笑い、彼に歩み寄った。
「釣れますか?」
私がそう聞くと、若者が弾かれたように振り向き、私を見つめてぎょっとした顔をした。でも、すぐに苦笑を浮かべて小さく首を振った。
「全然釣れませんね」
「隣、腰を下ろしてもよろしいですか?」
「あ、……どうぞ」
私は彼に少しだけ距離を取って腰を下ろした。
「何か思い悩んでいましたか?」
「え……?」
彼の顔に驚きの色が広がり、すぐに俯いて唇を噛んでいる様子を見て、私は自然と口を開き、言葉を絞り出した。
「私、あなたぐらいの歳に妻と別れて、仕事も辞めてしまって。ひどく追い詰められていたんです。でもね、私がこうしてあなたに話しかけたように、この場所で黄昏ている私にある人が自分の苦しかった過去を語ってくれたんです。そうしたら、気が楽になりました」
「へえ……それは、」
若者はそこまで言ってふと、視線を膝元に落とす。私は彼の横顔を見ながら、そのまま言葉を続けた。
「私もね、妻は男と一緒に逃げてしまうし、リストラに遭って住む場所さえも追われていたんです。自分がどうしようもなく駄目な人間に思えて、このまま川に飛び込んで死んでしまおうかと思いました。でもね、考えてみれば、今が苦しいのは自分だけじゃないんだな、別に自分が信じられなくなる必要はないんだなって思えました」
若者は少しだけ口を開いて私の顔をじっと見つめていたが、やがてほんのわずかに笑みを顔に浮かべて、雲の切れ目から晴れ間が覗いた。
「だから人間、誰しも苦しみがあるのは全く当然のことなんですよ。それを自分だけだなんて思う必要ないんです」
私はそこまで言うと、腰を上げた。そして、おぼつかない足取りで歩き出す。若者の目がまっすぐこちらへと向かってくるのを感じたが、私にはただ彼の笑顔が、微かな余韻と共に、心に焼き付くばかりだった。
五十年前の自分と重なる気がしたのだ。
了