Hollow,more Hollow
彼はコーヒー・フロート、彼女はブラックコーヒーだった。彼が沈黙してから早五分が経とうとしており、二人が差し向かいになって既に四十五分が経過していた。彼女は彼の背後の壁にかかっている時計を、しきりに上目遣いで窺っている。彼が何か口をきこうとするたび、あの雑じり気のない黒目が彼を通過するので、血の気の薄い唇はふるりと震えて、また閉じてしまう。彼はコーヒー・フロートを選んだことを少し後悔している。時季外れの空調と、春先のぬるい雨脚が運んできた風も相俟って、聳えていたソフトクリームは無惨にも崩れ、ガラスの外側を汚していた。彼自身、もう手をつけようと思わなかった。甘ったるささえ、灰を舐めるようだったから。
二人以外に客は居たが、皆全てに厭き厭きしたような横顔で居る。向かい合っていてもその眼は相手を見ていない。対話より飲み物を掻き混ぜることに愉しみを見出してしまったもの、頬杖をついて煙草をふかしてばかりいるもの、ストロー袋をこねては意味ありげな形を作っているもの、……そういった人間たちの間を埋めるように紫煙は立ち込め、互いの顔色を煙に巻くのだった。
さて、皆濁った眼をしていた。だから、彼女の眼は一層澄んで、濡れて、輝いて、見える。
彼は彼女のはじめてになりたかった。人間の終わりが曖昧なものである以上、はじめては何があっても揺るぎようがないと彼は思っていた。彼女が生娘でなくなったと耳にした時、彼は後ろから殴打されて、荒波の只中に墜落したようなっ心地すらした。しかし、彼女の眼球は蒼白く冷ややかなままだったから、その昏倒は最小限で済んだと云える。彼が早く立ち直れたのはNのおかげだった。
(気落ちすることはないさ。生きている人間の〈はじめて〉は、いくらでも残されているよ。穴の数だけ。指の数だけ。細胞の数だけ。……いや、死は特別だ……死は筆頭であり、同時に例外だろうな)
Nはそう言って笑った。Nは彼に何でも教えてくれたものだ。けれどその三か月後、Nはこめかみに一つ穴を増やして、動くのをやめてしまった。あの日も雨が降っていたが、今日よりずっと冷たい雨だった。体温の低い彼女に抱きすくめられて温かく感じたということから逆算したら、今日よりずっと、寒い日だったのだろう。
Nの喪失は彼の胸を穿った。それは、未だに癒えない傷として遺されている。彼はNの葬式にはとうとう行かなかった。穴を一つ増やして死ぬだなんて、そういう場合、生きている人間の〈はじめて〉をどう考えればいいのか、お前は教えてくれなかった。彼は、Nの生前の住所にそんなメモを残して、土地自体を離れた。あの話の前に、彼女の〈穴〉をひとつ〈増やした〉のはNだった。彼はNにたくさんのことを教わったのに、N自身のことは何一つ知らなかった。
すべてが、あまりにもありふれた喪失だった。
「赤い繭という短編があるんだ。安部公房に」
作品名:Hollow,more Hollow 作家名:彩杜