涙をこえて。
佳子さん、朝からうれしいことを言ってくれる。
確かに、僕たちはニアミスをしてきたのだろう。
しゃちほこテレビの公開番組のときは、ひょっとしたら
僕たちは10メートルくらいの距離まで近づいた、
すごいニアミスだったのかもしれない。
東京に移ってきてからも、近くに住んで、職場も近くて、
通勤に同じバスを使っているのだから、
一本違いのバスに乗ったり、
あるいは同じバスに乗ったりしたのだろう。
神様はそんなニアミスで僕たちを近づけて面白がっているうちに、
ついにぶつけてしまった。
僕たちは神様の不手際で再会してしまったのかもしれない。
こんな不手際なら、僕は大歓迎だ。
僕 「ニアミスしているうちに、ぶつかったね」
佳子「そうだね」
僕 「去年、彗星が町にぶつかるっていう映画を見たからかな」
佳子「あ、それって『君の名は。』でしょ。あたしも見たよ」
僕 「ああ、それで彗星みたいって言ったんだ」
佳子「そう。ワンコちゃん、
代々木の駅でお別れするときに『君の名は。』のこと言ってたでしょ。
あたしそのとき、ニアミスしていた彗星がついにぶつかったって
思ったのよね」
僕は、そう言えば、あのとき、佳子さんが口ごもっていたのを思い出した。
ニアミスの彗星の話をしたかったのを、僕が遮って、
「これからもがんばって」みたいなことを言ってしまったんだな。
僕は少し後悔した。
僕 「ああ、それがあのとき言いたかったんだ。ごめんね」
佳子「ううん、いいの。今言えたから」
僕 「うん。あの映画、よかったよね」
佳子「よかったよね。なんだか、究極の共感みたいな感じで」
僕 「究極の共感?」
佳子「うん。人間には誰しも、忘れられない名場面があると思うんだけど、
でも、それって頭の中でいつもひっそりと眠ってて、
なかなか思い出せないのよね。
でも、あの映画にはなんか、
そういう見た人の名場面を呼び覚ます力があるんだなあって気がしたの」
「それで、見た人それぞれの『君の名は。』が
その場で生まれて、見た人の頭の中で生き生きと展開していくのよね」
僕 「そっか、だからみんないいと思うんだ」
佳子「そうそう。あの映画を何度も見たくなるっていうのも、
その生き生きとした展開にまた浸ってみたくなるからじゃないかなあ」
僕 「うん」
佳子「だからあたしも、共感してもらえる、
何度も見たくなるようなダンスがしたいのよね。
見た人それぞれの頭の中に、何か、
その人だけの花を咲かせられるといいなって」
佳子さんのダンスの夢は大きかった。
見た人それぞれの中で展開する。素晴らしいことだと、僕も思った。
そういえば昔、紅白歌合戦をラジオで聞いたとき、
実況のアナウンサーが冒頭でこんなことを言っていた。
「お仕事中の方、病院に入院している方、車の中にいる方。
みなさん一人一人の、紅白歌合戦です」
そうか、いいコンテンツって、一人一人の中に生きるんだな。
僕はそのときそう思った。
今の話も、きっとこの話につながるものがある。
そして僕は、ひそやかな願いを佳子さんに思い切って打ち明けた。
僕 「できたら、『君の名は。』の主人公たちみたいに、なれたらいいな」
佳子「うふ」
佳子さんは、はっきりした返事をしなかった。
時をこえて出会うという設定は、映画と一緒なんですけど。
そう思っていると、佳子さんは、話題を変えた。
佳子「お腹、すいたね。朝ごはん、用意してもらおうか」
僕 「うん」
佳子さんはそういうと、電話のところまでもぞもぞと動いて、
内線で朝食の用意を頼んだ。
そして、タンスに近づいて、引き出しから着替えを取り出した。
ホテルの部屋のタンスに着替えが入っている?
ちょっとおかしかったが、佳子さんはここの娘さんなんだから、
そういうこともあるのだろう。
そういえば、ロマンスカーを降りるとき、やけに荷物が少なかったが、
それは着替えを持っていかなくてもいい、ということだったのだろう。
僕の疑問がまたひとつ解けた。
すると、次の瞬間、佳子さんはするりと浴衣を脱ぎ始めた。
身長155センチの佳子さんは、
体にまとわりつくような濃い紺碧色の帯を緩め、
腰を少し回し、ベールを脱いだ。
「えっ」
僕は、浴衣から身を放たれた佳子さんを見てはいけない、と思い、
目をそむけた。
「あのっ」
僕はそこで声をあげた。
佳子「あ、ごめん、脱いじゃった」
佳子さんは悪びれもせずに言った。
佳子「ま、大丈夫だけどね」
佳子さん、何言っているんですか。
僕は目をそむけていたが、僕はちょっと悪びれることにして、
ちらりと期待した視線を佳子さんの方に送った。
すると、佳子さんは、
浴衣の下に袖のついた白い襦袢のようなものを着ていた。
なーんだ。
僕は、ドキドキして写真集を買った高校生が、
こっそり中身を開けてがっかり落胆するかのようなため息を漏らした。
佳子さん、これも設定、作戦ですか。
佳子「じゃ、向こうで着替えてくるね。ワンコちゃんも着替えて」
佳子さんは、僕が疑問をぶつける暇も与えず、着替えを持って隣の部屋に移り、
ふすまを閉めた。
不思議だなあ。
きのう、洗面所で肩を抱いた時は耐えられないくらい恥ずかしく、緊張して
肩を放してしまったのに、いまは、
ちらりと佳子さんのベールの中が見られないかと
期待してしまっている自分がいる。
みわちゃんとは、こんな展開はない。
わりと早い時期から、
僕とみわちゃんはその日の演目をこなすように過ごしてきた。
演目自体は、面白かったり、本能に訴えかけるものも多々あるけれど、
演目と演目をつなぐ場面はこれといったものがない。
それは平坦な道をゆるゆると進む馬車のようなもので、面白味も緊張感もない。
すべては想定内だ。
時には反応を期待されるとわかって、反応を演技したりもする。
でも、佳子さんとは、違う。緊張感あふれる展開だ。
展開と展開の間にも何かが隠れている。つながっている。
小ネタもある。話も面白い。
僕は、女性の魅力や、女性とともに過ごす時間というものの意味について、
考え始めていた。
佳子「あら。まだ着替えてないの?」
佳子さんは、首だけ隣の部屋のふすまから出して、言った。
着替えるのが早い。
佳子「もうちょっと、待っているからね」
そう言って、首を引っ込めてふすまを閉めた。
僕はあわてて自分の荷物から着替えを取り出し、浴衣をやくざに脱いで、
黒のシャツに着替えた。
僕 「着替えたよ」
佳子「あら、じゃあ、いくよ」
そう言うと、佳子さんはふすまをバッと開いて、姿を見せた。
その姿を見て、唖然とした。
予備校のパンフレットに、高校生役で出ていた時と同じ
白いハイネックのセーターに、赤いスカートだったからだ。
僕は思わず言ってしまった。
僕 「あの、これ、代々木の予備校の」
佳子「そう、パンフの、ですっ」
「さすがワンコちゃん、よく覚えているね」
僕 「うん。大事に持ってたからね」