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うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~

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プロローグ~明治15年 東京~

浅草猿若町(あさくささるわかまち)。江戸三座と呼ばれる歌舞伎の芝居小屋
に程近い一角。「田中写真館」という小綺麗な看板を掲げた店では、ちょうど写真撮影の真っ最中だった。
緊張した面持ちでカメラを見つめるのは、若い女形の役者だ。浮世絵からするりと抜け出してきたかのような美しい細面。涼しげな切れ長の瞳。真っ白に化粧をした顔の中で、小さくぽってりと描いた唇と目尻とが、なまめかしく紅く濡れていた。腰かけた木の椅子から溢れんばかりの、花魁のような艶やかな衣装も、同じく紅かった。
「じゃあ太夫(たゆう)、撮りますよ。動かないでくださいよ」
お付きの若衆と思われる男たちも、役者の周囲で微動だにしない。ややあって、シュボッと微かな音が鳴り、銀色の閃光が走った。
「はい、結構でございますよ」
 写真技師はかぶっていた布から顔を出して、明るい声で言った。
「菊之助太夫(きくのすけたゆう)、お疲れさまでございました」
 太夫は、女形に対する敬称だ。若い女形の、やや強張っていた表情がふっと緩んだ。濃い化粧で正確な年齢は判然としないが、おそらくようやく二十歳を超すか越さぬか、というところだろう。撮影が終わると、妖艶な美しさの中、瞳だけがその年齢の若者らしくキラキラと輝いた。長い裾を気にする様子もなく立ち上がり、写真技師に近づく。そうして物珍し気にカメラを眺め回した。
「確か太夫は、写真撮影は初めてでしたか」
 写真技師が笑いかけると、菊之助も紅い唇を少し上げて愛らしい微笑みを浮かべた。
「いや、2度目さ。何って、不思議で仕方ないんだ。だって、今あたしはここにいるだろう。けど、さっきまで・・・」
 と、菊之助は先刻まで座っていた木の椅子を指さした。色鮮やかな袖を重ねた先から、顔と同じように真っ白に塗られたしなやかな指先が覗く。
「さっきまであそこにいた、それがそのまんま切り取られてるんだから。まったく、写真ってのは不思議で仕方がないや」
「ははは。確かにね」
 あまりに無邪気な物言いに、写真技師は声を上げて笑った。
「ねえ、おじさん。写真ってのは一体全体、どういう仕組みなんだい?」
「そうさね・・・」
 写真技師はさっきまで自分が操作していた、布をかぶせた部分の下を指さし、菊之助に説明を始めた。いつの間にか、お付きの3人の若衆までが傍に集まって、熱心に耳を傾けている。写真技師はひととおりの説明を終えると、自慢げに胸を張った。
「役者さんの姿絵って言やあ、これまでは浮世絵が主だったが、これからは写真の時代だ。いずれ、この写真が浮世絵に取って代わるだろうよ」
 その言葉を聞いて、菊之助はほうっと息を吐き出し、言った。
「へえー。時代ってのは、変わるもんだねえ」





 芝居小屋のある通りは、いつものように賑わっていた。呼び込みの声。行き交う人々のさざめく声。ずらりと並ぶ、役者の名を染め出した幟。無数の提灯や芝居の見せ場を象った作り物。そして、その美貌と演技力で今人気急上昇中の若手女形、瀬川菊之助(せがわきくのすけ)を描いた派手な絵看板。今年に入ってからやたら目につく彼の絵看板を、香桜留(かおる)はちらりと見上げた。瀬川菊之助に似ている・・・香桜留はよく、周囲からそう言われていた。すっきりとした細面の瓜実顔と涼し気な切れ長の目元がよく似ていると。美貌の女形と似ている・・・普通なら喜ぶべきことなのだろうが、香桜留は今ひとつ嬉しいとは思えなかった。多分、瀬川菊之助とは同い年の幼馴染で、子供の頃はよく一緒に遊んだ関係で・・・しかも菊之助がその美しい容姿に似合わぬとんだやんちゃ坊主で、よくいじめられて泣かされていた、という一連の経緯のせいだろう。
華やかな喧騒の中を、香桜留は風呂敷包みを抱え足早に通り過ぎた。この町で生まれて育った彼女にとっては、見慣れた日常の光景だった。
 賑やかな通りを一本中へ入ると、人通りはぐっと少なくなる。芝居小屋を取り囲むように、役者や芝居関係者の家が立ち並び、突き当りには神社があった。赤い鳥居が柔らかな3月の日差しに滑らかな光沢を見せていた。香桜留は神社の鳥居をくぐった。目的地までは、この神社の境内を突っ切るのが近道なのだ。ふと、香桜留の足が緩む。視線の先。境内には樹齢100年近いと思われる桜の巨木があり、狛犬を覆い隠してしまうほど枝を四方に伸ばしていた。満開の頃、見上げると空いっぱいに薄紅色の花びらが舞う。香桜留はこの場所がお気に入りだった。だがまだ3月の初めのこの時期、蕾は硬く閉ざされている。
 神社の裏手に抜け、香桜留はすぐ目の前にある1件の小さな家の門をくぐった。
「ごめんくださいまし」
 格子戸の向こうに声を掛ける。ややあって、ガラガラと戸が滑った。現れたのは、黒っぽいよろけ縞の着物に梅の模様の生成りの帯を締めた、30歳前後の女だった。背が高く、肩幅もがっちりとしていて、小柄な香桜留は自然に彼女を見上げる格好になる。
「あら、いらっしゃい、香桜留ちゃん」
大柄な体に似合わぬ、おっとりした声で女は言って、目尻を下げて笑った。
「こんにちは、お津多(つた)さん」
「さあさ、上がって。恭介(きょうすけ)さんがお待ちかねよ」
 お津多の後ろについて、香桜留はまだ底冷えのする廊下を歩いて行った。小さな平屋は奥に長い造りになっていて、縁側から日は差し込んでいるものの、どこか薄暗く陰鬱な空気を漂わせている。
 一番奥まった、突き当りの部屋。入口は木を頑丈に組み合わせた格子になっており、その向こうは6畳ほどの畳敷きの和室だ。お津多はその格子の前で足を止めた。木組みの向こうに見える部屋は散らばった紙や絵の具を入れる小皿、本やよく分からないがらくたのような物で、足の踏み場もない状態だ。真正面に障子をはめた、丸い小さな窓があり、薄く日が差し込んでいる。その前の文机に、格子に背を向ける格好で男が座っている。濃い緑色の着流し姿。縞の入った帯をゆるく締め、痩せた背中は着物越しでも肩甲骨の形がはっきりと浮いて見えるほどだった。男は何やらブツブツ呟きながら、忙し気に手を動かしている。お津多はそんな男の背中に、声をかけた。
「恭介さん。香桜留ちゃんが、お見舞いに来たよ」
 男が弾かれたように振り返った。目の大きな、整った顔立ちの若い男。20代半ばくらいかと思えた。しかし髪は乱れ放題、目も落ちくぼんでひどく疲れている様子であった。
「こんにちは、恭介さん。お加減はいかが」 
 香桜留が柔らかく微笑むと、男は唇の端を少し吊り上げた。
「いいとも悪いとも、いつも通りさ」
 お津多が格子の鍵を開けると、香桜留は慣れた様子で、散らかった紙や絵の具皿をよけて窓際の机の傍に座った。恭介の手元を覗き込む。恭介は、絵を描いていたようだ。
「桜ね。素敵」
 いつもながら、何て綺麗な色使いだろう、と香桜留は感心した。しかし、筆使いはひどく乱れ、明らかに震えていると思われる箇所もあった。
「いいや。今日は良くない。朝からずっと描いているが、1枚だって納得できやしない」
 香桜留は畳を埋め尽くす紙の山を見つめた。格子の外ではお津多が、
「お茶でも淹れてくるわね」