さくらメロディ
女性の奮起する意志を唄ったこの曲は、私が音楽に対して挑む一つの決意にも似ていた。それは心の奥深くまで突き刺さった矢のように鋭く、そして心を満たす程に優しく、柔らかい。そんな相反する二つの要素を持った曲。
私が声を張り上げる度に、男が半開きにした口をさらに大きく開けて、食い入るように見つめてくる。ビブラートが男の体を激しく震わせて、高音はどこまでも桜のはるか上まで伸びていく。そこには躊躇が入る隙間はなかった。
そうしてゆっくりと曲が終わりを告げると、男はさらに石化したまま私を見つめ続けた。
「どうだった? 私の曲、聴きたかったんでしょ?」
私がギターを男へと差し出すと、そこでようやく我に返ったのか、彼はどこか恐れ慄いた顔で私を見つめ、何も言いたくねえな、と零した。
「何よ、それ。あと何が足りないと思う?」
「足りない訳ねえだろ。もうプロになれるよ。なんでなってないのかそっちの方が不思議だろ」
男は顔を反らして皮肉を言うような口ぶりでそう返す。私は肩をすくめて、まあね、と言った。
「確かに技術は付いているんだけど、あんたのように人の心に染み渡るようなものがないのよ。それで、いつも挫折してるの」
「挫折だと? 甘っちょろいこと言ってんじゃねえ。今デビューしなかったら、チャンスを逃すかもしれねえぞ」
「私の音楽好きは半端じゃないよ。自分がこれと決めたら、絶対にやり遂げるから」
男は半ば呆れた顔で私を見つめていたけれど、やがて肩をすくめて、「馬鹿か」とつぶやいた。
「俺なんかプロ目指してるのに、全く届かないで日本全国ふらふらして、女引っ掛けたり、電柱にしょんべん引っ掛けたり、そんなことばっかりしてたからな。デビューできるならさっさとしちまえ。何も躊躇う必要なんかねえよ」
「あんたの歌のように、私も唄えないのかな」
私がそう切実な眼差しを向けると、男は「はっ」と笑ってにやつく顔を浮かべる。
「そんなの簡単じゃねえか。自分のやりたいようにやればいいんだよ。何も考えずに、適当に生きてりゃ自然とやりたいことがはっきりして、歌にも味が生まれるってもんよ」
「プロでもないあんたに言われると何だか腹が立つわね。世にいるプロミュージシャンが私達の会話聞いたら、鼻で笑って一発拳骨お見舞いするわよ」
「いいんだよ、そんなの。プロじゃねえんだから」
そんなことを言いながら、男はギターを撫でて唇の端を持ち上げて笑う。
「ねえ、とにかくさ、あんたの歌には何かあるのよ。だから、それがわかるまで、ここに来て聞き続けたいんだけど」
「はあ? 俺にそんなに惚れ込んでいるのか。まあやりたくなったらいつでも俺の元に来いよ。俺、そっちの欲望は果てしがないから」
「そのギターであんたの脳天かち割るわよ」
私達は罵り合いながら、翌日もそこで落ち合う約束をし、もう興味を失ってその場を後にした。男はまだその木に寄りかかってギターを弾いていた。その歌声がふわりと耳を撫でると、桜が舞うこの季節に聴けて良かったな、とぼんやり思ってしまう。
何故そんな気になるのかはわからなかったけれど、それでも私は音楽への道筋をどうにか見つけようと足掻いて、前へと進んでいくしかない。