ヴァシル エピソード集
+蛍の赦し
なぜ、貴方は私を選んではくれなかったのですか。そう、問いかけることは無意味だと、気付いていた。選ばれるわけもない。私は、最初からそういう存在でしかなかったのだ。
私が生み出されたのは、ほんのわずかな明かりしかない、細い月の夜だった。そこで、私を生み出した主はこう言った。
『破滅をもたらす、真なる闇。俺の、分身。お前は、俺の望みを叶えてくれるか? ヴァシル』
その時の主の表情は、憂いでしかなかった。自嘲であったのかもしれない。破滅しかもたらさない、私という存在を生み出した、その己の罪と愚かさへの自嘲。
なのに私は、何も主の思いなど気付きはしなかった。ただ、自分を生み出してくれた主への感謝と、自分の名を呼び、存在を認めてくれた感激で文字通り狂わんばかりに、我が主アルスに熱狂していた。
私は主の望み通り、破滅をもたらす者として生きた。だからそこで私は当然のように思ったのだ。主の望みはこの世界の破滅であると。だが、それは全くもって正しくはなかったのだと、知ったのはつい先ごろだった。
主アルスは世界の破滅など願ってはいなかった。ただ、唯一願ったのは、自分自身の破滅であったのだ。
私は生み出されて何千年の間、ただひたすら、主の望みを叶えんと、世界に破滅をもたらそうと腐心してきた。アルスの望みを叶え、アルスの心を満たしたいがために。
アルスは、一度も、我らの成果に喜んだことはなかった。当然だったろう。我々はとんでもない勘違いをしていたのだから。アルスの望みを完璧に理解していると思いながら、それは全くの思い込みでしかなかったのだから。
アルスの願いを叶えたのは、私ではなかった。アルスによって、私と同時に生み出されたもう一つの存在、ザフォル。いや、生み出されたという表現では正しくはなかった。ザフォルは捨てられたのだ。日が昇る直前の朝焼けの中で、アルスが捨てた欠片から生まれた。
だが、その捨てられたはずの男だけが、アルスの願いを叶えた。それも、アルス自身が長い年月願い続けた己の破滅という形ではなく、全く別の手段によって。
主の願いを叶えるために生み出された私では叶えることはできず、アルスが捨てた存在であった男が、アルスの願いを叶えたなら、私は一体、何のために生まれたと言うのだろう。
アルスのためだけに生き、アルスの願いを叶えるために全てを捧げた私という存在は、一体何であったのか。
屈辱とも、絶望とも違う。わけのわからない感情が、私の中にあった。それは、アルスが願いを叶えられたとき、全ての同族に与えられた、得体の知れない感情によって更に荒れ狂うほどに増幅されていった。
私は一体どうすればよかったのか。アルスに一体、どうしてほしかったのか。
光を恐れ、閉ざされた闇に篭った。私の中に生まれた得体の知れないものを認めてしまえば、私は自我を保っていられなくなるような気がした。他の同族と同様に、耐えきれない感情の奔流によって崩壊してしまうような気がした。
私は、闇に逃げたのだ。
だが、どこまで逃げても、「それ」からは逃れられはしなかった。むしろ日増しにそれは私の中で増大していった。
脳裏に駆け巡る記憶。アルスのために働き、アルスのために捧げた数々の犠牲。だが、一番記憶にまざまざと刻みつけられたのは、己のきまぐれに寄った罪であった。
ただのきまぐれで弄んだ存在があった。アルスへの忠誠や崇拝の介在しない、自分自身の欲望による結果だった。
その存在には愛している者がいたのだろう。だが、私はそれを逆手にとり、その存在を弄び、痛めつけた。己の物にならないものに焦がれていたのかもしれない。それは、私のアルスへの思いにも、どこか似ていたのかもしれない。なぜ、私の物にならないのか。その答えを知りたかったのかもしれない。私は、それまでにないほどに、その存在に執着した。そんなことは、生まれ出でてから初めての事だった。
なぜ私の物にならないのか、なぜ私を選ぼうとはしないのか。なぜ、私を……。
その存在を手放して以後も、永遠に出口の見えない問いを闇の中で繰り返していた。
ある日それを、わずかな光が、破った。
アルス、いや。今はサーレスと呼ばれる少年が私の下を訪れた。
私は彼を殺そうとした。そうすれば、私を苛むあらゆる苦しみから解放されるかもしれないと思ったからだ。だが、己を殺そうとする私と対してもなお、彼は、笑った。そしてこう言ったのだ。私を見て、とても人間らしい顔になった、などと。まるで、子供の成長を喜ぶ、人間の親という存在のように。
そして私は気付いたのだ。私はただ「愛されたかったのだ」と。そして同時に、私の中で渦巻いていた思いが、堰を切ってあふれだした。激しい、後悔だった。
なぜ私は他者の心を介さず、数々の残虐な行いを、平然とできていたのだろうかと。
同時に私は理解した。同族達が崩壊して消滅していった理由を。この罪の重さに、彼等は耐えることができなかったのだ。自分たちの残虐なふるまいを、認めることができなかったのだ。
私も、きっと同族と同様に消えるのだと、その時確信した。誰よりも重い罪を背負いながら、自分が生き永らえる理由など何もなかった。当然のように、何よりも先に、私はこの世から消えるべきであった。
なのに、我が主は、それを許してはくれなかったのだ。
「ヴァシル、許されていいのだと自分自身が信じなければ、救いなんてありません。僕は、貴方には、救われてほしいと、心から思います」
それはその時の私にとって、何よりも大きい、最大限の赦しであった。
「まだ、表に出る気にはなれませんか?」
アルス。今はサーレスと名乗る少年は、深い洞窟の入り口で、私を振り返った。外は、わずかな明かりしかない、細い月の夜だった。私は、その光すら拒むように、光のぎりぎり差し込まない岩屋の影で、彼を見送っていた。
「流石に、そう簡単に全てを認められるわけも、ありませんから」
うつ向き気味に私は己の手に目を向ける。その手をわずかに伸ばせば、かすかであっても光がこの身にも届く。けれど、今はまだそれをする気にはなれなかった。
その時私が認めたのは、己の罪のほんの一端でしかなかったのだろう。私が抱えてきた闇は、この程度の物ではなかった。もう二度と日の光の下で歩むことはできないのかもしれないとも思った。
けれど、我が主だった少年は、笑った。
その笑みは快活な笑みではなかった。むしろ、自嘲のような色を含んだ、憂いの笑み。主が初めて見せた懐かしい表情だ。けれど、あの時とはわずかに違う。そこに入り混じるのは憂いだけではないことは、今の私にははっきり、見てとることができた。
「ああ、蛍ですね」
少年が言った。
小さな光が、辺りに浮かび上がっていた。そのひとつが、私の手元に来て、私の指先にとまる。
それは、小さな光を灯す夜の虫だった。
月の光から逃れた岩屋の影だというのに、その小さな明かりは明滅を繰り返し、私を照らそうとする。大きな光から逃れても、そうやって小さな明かりは、否応なしに灯るのだろうか。
「ゆっくり、歩いて行きましょう。貴方一人じゃ、ありませんから」
作品名:ヴァシル エピソード集 作家名:日々夜