薄紅の
芳峰はくすくすと忍び笑いを漏らし、襟元をなぞるようにして貫太郎の肌を愛しげに撫ぜる。
「嬉しい……、貫太郎さま……」
初めて名前を呼ばれて、身体の奥がやわやわとくすぐられるような気がした。
少しだけ開いた窓の向こうに、朧となった月が見えた。
――瞼の裏に、眩しい光が映った。
朝か、と寝惚けた思考回路をゆるゆると動かし出そうとした刹那。
「おはようさんでございます、旦那」
凛、と。
よく知った声がした。
ぎょっとして飛び起きると、目の前には果たして幸若がいた。この声を聞き違える訳がない。
幸若は仕掛けを総て解き、髪も下ろして右肩に流してひとつに結わえている。紅襦袢の裾を気にすることなく白魚のような足で柔らかな布団の上を貫太郎に擦り寄り、んふふと彼の額を優しく撫ぜた。ほつれる鬢を直すように。
「幸若……どうしてここに?」
混乱する貫太郎は、自分でも間抜けだと思いながらも女に問うた。
芳峰はどうしたと言うのだろう。貫太郎が眠りに落ちるまで、彼の懐で猫にように丸まっていたのではなかったか。本懐を遂げたと満足し、ゆるゆるとした朝寝を愉しむこともなく寝床を抜け出したのだろうか。それとも、幸若と入れ替わりに出て行ってしまったのだろうか。しかし、その予想は次の幸若の言葉で即座に外れたと知れた。
「あら嫌だ。明け方まで続いたお勤めが跳ねてすぐさま旦那のところに来たってぇのに、旦那ったらぐうぐう高鼾。やっとお目覚めかと思ったら、そんなつれないことをおっしゃる。冷たいお人ですよぅ」
「芳峰は……?」
言ってしまってから、貫太郎は反射的に幸若から目を逸らした。浮気した、と責められても無理はない。
ところが、幸若は彼を責めるでもなく。
化粧を落としてもまだほんのり紅い唇がうっすらと笑みどられた。意味ありげな声音で、
「昨日は、芳峰とお逢いになりましたか」
――からかわれているのだろうか、と寝起きの貫太郎でも判る。
「お前さんがどうしても外せないと言って、芳峰を寄越したんじゃないか……」
そう言い返すと、一瞬幸若は真顔になり、そうしてまた僅かに笑んだ。
「いえ。……芳峰は、自分から旦那のところへ行ったんですよ」
「何だって?」
訳が判らない。
遠くで、誰かが三味線を弾いている。
「昨夜、あたしは確かにどうしても抜けられないお席があって、旦那に無理を言いました。女将さんに手紙も預けました」
「ああ。それは受け取った」
その返事を聞いて、幸若は少し身じろぎしたようだった。
「あたしが頼んだのは、それだけです。女将さんからは、旦那が承知したと言ってお一人でゆるゆると呑んでらっしゃると聞いてました」
「一人で? 莫迦な。女将が折敷と一緒にお前さんからの手紙を持ってきて、それから、芳峰が……」
「旦那」
尚も言い募ろうとする貫太郎を、幸若が有無を言わせぬ口調で遮った。一瞬迷いを見せたようだったが、ついと顔を上げ、貫太郎の目を見ながら、一語一語はっきりと、
「あの子は、一昨日、死んだんですよ」
「え?」
唐突に、何を……言い出すのだ?
呆然とする貫太郎に構わず、幸若は続ける。
「急に、びっくりするくらいの熱が出ましてね。三日三晩魘され続けて――死にました。旦那にはお逢いしたときに、お知らせしようと思ってました」
そう言って、目を伏せる。長い睫毛が細かく震えているのが見てとれた。
「だって、じゃあ、昨日のは」
「芳峰でしょう」
あっさり肯定された。
「…………」
貫太郎は、言葉を失った。
そう言われてみれば、昨夜程店を上げてのもてなしをした席に、舞の名手である芳峰がほんの一指しでもお呼びが掛からなかったことを不思議に思うべきであった。
「でも、芳峰は」
甘く喘ぐ声を我慢するように掠れた熱い息を吐いて、うっすらと涙さえ浮かべた蕩けた眼差しで、狂わんばかりに身を捩っていたではないか。それが、錯覚だったと言うのか。脱ぎ散らかした着物も襦袢も、その上に沈む白い曲線も一幅の絵のように鮮やかに目に焼きついているのは幻だったと言うのか。しっとりとした汗が吸い付くような滑らかな肌も、乱れて指に絡む黒髪も、この世のものではなかったと言うのか。
「…………」
幸若の話が信じられず、貫太郎は思わず自分の両手をまじまじと見詰めた。昨夜、確かに触れたのに。何度も、触れたのに。
そっと、違う女の手がその上に重ねられた。目の前にいる女の体温とやわらかさを伴ったちいさな手。
「――ねぇ、旦那、ご存知でしたか? 芳峰は、旦那のことが好きだったんですよ。……今まで、誰にも言えなかったんでしょう。今生の別れに、どうしても想いを遂げたかったんでしょうねぇ。あの子は、ああ見えても芯の強い子だから」
最初で最後だから。
いつになく押しの強い言葉の裏に隠された、静かな激情と横たわるひそやかな悲壮感。それを思うと、貫太郎は胸が詰まった。
「……ちわか」
女の名を呼ぶ声が掠れた。口の中はからからに渇ききっている。舌を湿らせるように、溜めた唾を飲み込んだ。
「はい……? 何です?」
「これで、良かったのかな。私は、あの子に頼まれるままに抱いてしまったけれど」
幸若は悪戯な猫のように目を細めた。
「ちゃんと、可愛がってやりましたか?」
「あ……ああ」
幸若の前でそう答えるのは幾分か気が引けたけれど。貫太郎は素直に認めた。
「……羨ましい話ですよ」
その返事を聞いた幸若は視線を外して、拗ねたように零した。
「うん……? 芳峰は、お前さんのことが羨ましいと、言っていたぞ……」
すると、幸若は妙な顔をした。
「莫迦ですね、旦那は。もう何度枕を交わしたか判らないあたしよりも、強烈に旦那の心に残った一夜を共にしたあの子が羨ましいってんですよ。……旦那って、肝心なところですごーく、鈍いですね」
何度数えたか判らない夜と、たった一度きりの夜。貫太郎には比べるべきもない。どちらがどうなぞと無粋なことは思わない。
ただ――切ない、と。そう思った。
芳峰はどんな思いで自分に抱かれたのだろうかと。今となってはそれを確かめる術もない。
そして、幸若はどんな気持ちで自分と話しているのだろうかと。しかしそれを口に出して問うのは甚だ無粋な気がして、彼はその疑問を打ち捨てた。己が手に重ねられた温かな手が、その証左なのだから。
「……お盆は済んでしまいましたけれど、もうすぐお彼岸です。線香のひとつでも上げてやってくださいな」
頷くだけで、何も言えなかった。
言葉の代わりに、すうと涙が一筋、流れ落ちて二人の手に零れた。
ちり、と仕舞い忘れた風鈴が鳴った。
何か言おうとした幸若は一旦口を噤み、ちいさく首を振ってから再び唇を動かした。
「芳峰は、本当に、旦那のことが好きだったんですねぇ……」
そう言って、幸若は貫太郎の胸にしなだれかかった。
窓枠から見える空は、知らないうちに秋めいているようだった。