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ヘケラン西中
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村上春樹考察

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「グローバルスタンダードな村上春樹」

そんなイメージでしたけど、ノベリスト内でユーザー検索してみると6万人中、300人で全体の0.5%しか村上春樹を好きな作家登録していなかった。

たった0.5%の意見から村上春樹はノーベル文学取るべきな空気が作られてる。

必死こいて村上春樹の文体真似たというのに、0.5%しか需要がないとかゲンナリ

とはいえ出版社は、この0.5%に受けるものが「売れる小説」と思い込んでいるのだろうから、出版社にアピールするには村上春樹文体をモデルとするのが正解なのかもしれない。
それとも出版社も0.5%しか村上春樹を支持していないのだろうか



※騎士団殺しが発売した当初はアマゾンレビューは賛否両論で評価は平均2.5くらいだっと思う。それが三年たつと、名作のように高評価に。

レビューが操作されてる可能性を疑うべきかは、中古価格の安さや、サクラチェッカー、作品をGoogle検索にかけたとき商品にスポンサー表記がされるか等の条件が必要だろうが、今はどうなんだろう?

調べてみると中古は安いが、サクラチェッカーには反応なし、Google画面にはスポンサー表記がされているものの…。

これは過去最大級にレビューが低評価で荒れていた「リアル鬼ごっこ」でも同じ状態にあり、現在はリアル鬼ごっこは高評価になっている。

それは何故なのか?

一応、否定レビューを書くと削除される噂があったりする。その真意は定かではないないものの…

たぶん、賛否両論がレビューあると、読者の対立構造によって時間が経つ程に以下のような現象があるのかも

読者Aが友達に言う。
「ちょっとこの肯定レビューおかしくない?そほ本貸すから読んで感想くれない?」

読者Bも友達に言う
「ちょっとこの否定レビューおかしくない?この本貸すから読んで感想くれない?」

こうして賛否両論レビューは時間と共に更に多くのレビューが集まってきて、最終的に小説なんぞ興味ない層の感想も集まってきて、最終的な評価は小説興味ない層の意見寄りに集約されていく。

6万人規模の小説投稿サイトで調査したころ、
リアル鬼ごっこの作者(山田 悠介)を好きな作家として登録しているのは153人でした。

村上春樹310件、東野圭吾423件が好きな作家として登録としてされている。

6万人を越えるユーザーから選ばれるのは全体からみれば、0.3%~0.7%%
日本人の人口比推定でいうと、40万人~100万人が、推定的に村上春樹、東野圭吾、山田 悠介の作品で満たされるということだろうか。

そのどれもが楽しめない人もいるだろう。それについても調べてみた。

ユーザー検索から好きな作家の項目に、「誰もいない」という書き込みをしている人を探した。「なし」「無し」「いません」「いない」等のワード検索でそのニュアンスを探すと

無し41 なし253 いない58 いません52
合わせて約400人が好きな作家がいませんでした。

6万ユーザーいるなかで全体比率で0.7%の人は小説好きじゃない、あるいは嫌いなのかもしれない。つまり、人口比推定100万人規模が小説そのものが合わないとして、私もきっとそっち側。

「小説なんて面白くないやん。自分だったらこう書くぞ」のノリで書き始めたようなもので…。

で、色々と分析がしたくなる。
なぜ、自分の小説は全くチヤホヤされないのに、村上春樹はノーベル賞候補といわれる程にチヤホヤされるのさ、全然理解できない。

だって村上好きな人は全体の 0.5%ですよ? たった0.5%なら、それってもうマニアな領域であり、村上作品をノーベルに押してる人も単なる個人的な趣味見解なのに、それを勘違いして全体問題にすり替えているという事に


~村上春樹作品について思うこと~

市場に0.5%の需要しかないのに、どうやって売れるのか?
書店に置いて100人が手を取り、99.5人もスルーしてたら採算が合うはずがない。
でも書店の見えるところにスポンサー支援で置いてくれていて毎日100人が手に取れば1日0.5冊は売れるかもしれない。
全国に1万書店あるならば、毎日5000冊が売れるはずで、騎士団殺し初版100万部刷ってても一年かければ売れるだろう。誤字だらけで文体に問題が満載だったはずのリアル鬼ごっこでも在庫を残さずに売り切ることは可能なのだろう。


ハルキスト(村上春樹ファン)は
「文章が素晴らしい」という話を良くするらしい

文体に価値があるのかもしれない。文体に価値があるなら物語(シナリオ)が進行してない立ち読みな段階でも買える。

ストーリーが良いという話もチラホラある。「結局は良さについて説明しにくい」という意見も多々あるらしい(※テレビでの村上春樹な特集から)

とりま文体を真似るのが正解ですか?

村上味の例は
「台所でスパゲティーを茹ででるときに、電話がかかってきた。」
「僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた」

私なら「電話を取る」「るんるん気分で口笛を吹く」くらいの描写が短文でわかり易く正解だと思ってしまう。

村上文章は
ニヒルでキザなイケメンが朗読をしている様な感覚をイメージしたら、楽しめる。みたいなこと、NhKが言っていたのを思い出す。

つまり村文章は読み手に風俗産業的なセクシャル感覚を与えるのに成功している。

「台所でスパゲティーを茹ででるときに、電話がかかってきた。」
ストーリー的にはスパゲティーでもラーメンでもソーメンでも何でもいい筈なんだ。あえてスパゲティーがチョイスされてるのは、『洋風イタリアンを好む主人公はリッチなイケメンに違いない』という先入観を抱かせている。
ラーメンやソーメンではイケメン感が伝わらない。

「台所でイケメンがパスタを茹でているときに、電話がかかってた。」と素直に書いてもいいと思うのだが、それではいけない。なぜなら、この文体だと《1どこで、2誰が、3何をしていて、4何がおきたか》4つを脳内にインプットしないといけない。

村上文体の「台所でスパゲティーを茹ででるときに、電話がかかってきた。」だと、《1どこで、2何をしていて、3何がおきた》3つを脳内にインプットするだけでいい。
4つの単語を同時に意識をするのと、3つの単語を意識するのとで、どちらも同じ意味なら少ない方がいい。


「台所でスパゲティーを茹ででるときに、電話がかかってきた。」
私ならスパゲティーを茹でる場所は台所だと決まってるものだと思うから、わざわざ『台所』を描写する意義が分からない。文字数を稼いでいる?

読者が《スパゲティーはお店で茹でるもの》という先入観があるのなら、台所表記は必要になるかもしれない。
その価値観は富裕層視点だ。
金持ちにしか良さが分からない文体だとすれば、本を気楽に買える金持ちをターゲットにするのは効率的だ。

そういえば
貧乏人が小説家になったという話は聞いたことない。ハリーポッターな作者だって、生活保護者だったし、カネの悩みはなかった。

きっと
作品名:村上春樹考察 作家名:ヘケラン西中