WISH
僕の背後で不安げな声を出すルピアに何だか少しいらっとした。けれど、それを顔にも空気にも出さないように懸命に堪え、努めて明るく言う。
「どうして? 僕は君の願いを叶えようとしているだけだよ?」
「でも……」
長いまつげを伏せ、視線を外す。その歩みは既に止まっており、僕との距離が今の彼女との気持ちの差を表しているようで、何だかやるせなかった。
「ルピア?」
優しく語りかけ、背中の荷物を揺すって背負い直し、ルピアの元へと歩を戻す。立ち止まったままのルピアの前に片膝をつき、所在なさげな両手を取る。その華奢な指先は僅かに冷たい。
村人が整備した森の道から分け入ったところに、まだ新しい、下草や茂みをかき分けて行かないと進めない道がある。僕たちはそこから誰にも見つからないように、目的地へ向かう途中だった。僕が先頭に立って木の枝で払ってルピアの道を作っていた。
「……アンリ」
か細い声が僕の前髪に落ちる。
「やっぱり、止めましょう。みんなに怒られるわ……」
ルピアが足を止めた理由に検討はついていたけれど、正にその通りだったので僕は苦笑した。
「僕が怒られることはあってもルピアが怒られることはないよ。心配しないでいい」
「でも……」
「でも?」
「…………」
ルピアが言葉を探して何かを言いあぐねている間に僕は立ち上がり、片手をつないだまま再び歩き始めた。ルピアがつんのめるように後に続く。
「アンリ……!」
雲雀のような声、黒く美しい巻き毛。赤い唇。そして、この大きな目でお願いされて断れない者はいない。
ルピアの願いは、これまでずっと僕が叶えてきた。これからも、それは僕にだけ出来ること。ルピアには、僕しかいないんだから。
「大丈夫、僕の研究に間違いはないし、何度も色んな実験をした。これで、君の望みは叶うんだよ」
目配せしてみても、さっきからルピアは笑みを見せてくれない。今度は僕が足を止める番だった。
「……何が気に入らないの?」
「アンリ」
「不満があるなら言って? まだ実験が足りない?」
するとルピアは急にねじをめいっぱい回されたおもちゃの人形のように首を横に振った。僕はその返事に満足してにっこりと笑ってみせる。
「じゃあ、大丈夫だから。ルピアも笑って?」
「…………」
暫く考えるようにして、ルピアははにかんだ。そう、その笑顔の為に僕は……、
ざ、と風が頭上の木々を揺らした。
「この風だ!」
僕はルピアと走り出した。今日この時間に、強い風が吹くという計算が間違っていなかった事実が更に僕を高揚させる。
この道は、村の外れの丘に出る近道。僕は森を抜けきってしまう手前の茂みにしゃがみ込んで背中の荷物を下ろした。
僕がルピアの為に作った翼。大昔の愚か者のように、頼りない蝋なんて使わない。軽くて丈夫な膠や糊を調合し、一番飛翔力のある羽根を選んだ。そして、この風。
この僕が、失敗なんてする筈がないんだ。
翼を背負った僕は、ルピアを振り返った。
「見ててね、ルピア。僕たちも、飛べるから」
茂みから出た僕は空を睨み、風の方向を読む。今だ、と思った一瞬をとらえて僕は革靴で硬い土を蹴るように走り出した。
アンリの「研究室」の合鍵を錠前師に作らせていた父親が、彼を急かしてその扉を開いたのは丁度その頃。
長らくアンリ以外の何者をも拒んでいた部屋へ雪崩れ込んだ父親と錠前師、控えていた使用人が同時に口元を手のひらや袖口を覆った。うっかり床に手をついてしまった者は引きつった悲鳴を上げて汚れた手を服にこすりつけている。内側から打ちつけられた窓と閉め切られていた扉の中にこもった臭いに顔をしかめ、嘔気を覚える。
そこは、アンリが寝食を忘れて取り組んだ何かの残骸が、不気味な色と臭気を撒き散らして禍々しい芸術のように部屋中を彩っていた。
鳩や季節の渡り鳥、果ては村から盗まれたと思われていた鶏や七面鳥などが羽を切り裂かれ、もぎ取られ、壁に貼り付けられていたり、机の上に翼を広げた格好で並べられていた。その中には、同じようにされた蝶や蛾の姿も見受けられた。
床には無残な死骸と凶器が転がり、部屋中が錆びた血に染まり、机には高く積まれた本と無数のノートが残されていた。部屋の様子とは裏腹に、血で汚れた紙片に書かれた文字や計算式は丁寧なもので、逆にそれが彼らの背中を凍らせた。
「……ア、アンリの場所は判ったのか!」
よろめきながらも廊下で立ちすくんでいる使用人に怒鳴った父親の背中一面が嫌な汗でべたついている。
「ルピアと一緒に……村外れの丘へ抜ける道に入ったところまでは把握しております」
「我々も行くぞ!」
それは我が子を探すと言うよりも、早くここから立ち去って外の新鮮な空気を吸いたいが故の発言だったことに、本人も周りも気付く余裕はなかった。
背後で誰かが、堪えきれずに嘔吐した。
「ああ……」
ルピアの唇から漏れたその声は悲しみのそれではなく、単に息を吐き出したときにたまたま出ただけの、無感動な音でしかなかった。
眼下では、錆色のまだら模様をした折れた翼の下から新しく染み出した絵の具が地面に意味のない染みをかたどる作業が現在進行形で行われている。無造作に散らばった金髪がきらきらと陽の光を受けて輝いていたのが、段々とその煌めきを奪われているような錯覚すら覚える。
「……賢いアンリは、莫迦だったのね……」
呟きが風に溶ける。後ろから髪を巻き上げるようにふく風を忌々しげに見上げ、
「自由に空を飛びたい」
かつて口にした「願い」を再度声に出した。
裕福な家の子を唆して、娼館から逃げようと思った。街で出会ったアンリという子は自分は学者だから任せて、と言った。村長とつながりがある、とも。
だから彼女は託して、賭けたのだ。金の融通なのか、熱のこもった説得なのか、手段は問わなかった。ここから逃げられるなら何でも良かったし、誰でも良かった。
まさか、自分の言葉をそのままそっくり受け止めるなんて……そう、夢にも思わなかったのだ。ルピアはそのことに驚き、素直にある種の感動すら覚えて、無言でアンリの背後に続いたのだった。
止める隙がなかった、と言えば嘘になる。しかし、アンリが彼女の説得に耳を貸す気配は全くなかったことだけは事実だ。
しかし、逃亡を図った娼婦の言うことなど、誰が信じてくれよう?
髪とスカートの裾を押さえながら、ルピアは踵を返した。どう説明したって、自分は籠の中に逆戻りなことに間違いない。……いや、それだけでは済まないかも知れない。
早く立ち去ってしまおう。今度は、人に頼らず、ないものをねだらず、自分の二本の足だけで。
アンリから離れて引き返すと、自分たちが出てきた茂みがざわりと動いた。
「……ここから逃げたい飛びたいといくら願っても、神様は翼なんかくれないのね……」
そのときルピアが浮かべた微笑みは、きっとこの世で一番美しいものに違いなかった。