寒いなら、一杯のコーヒーを
私は背後のドアからわずかに漏れてくるジャズ・ピアノの旋律を頼りに、意識をこの世に繋ぎ留めていた。こんな寒気漂う喫茶店のテラスで、しかも眠ろうとしているのはこの世でただ一人、私だけだった。
寒さも気にならないほど、私は眠かったのだ。毎日仕事続きで睡眠時間が取れず、どこでも構わず眠ってしまうほど疲れていた。何故テラスにいるのかと言うと、待ち合わせがこの場所だったからだ。
もう約束の時間からかなり過ぎている。三時に待ち合わせて、もう五時で辺りは真っ暗だった。一体彼女はどこで何をしているのだろう。
そこで背後のドアが開き、足音が近づいてきた。私は加代子が来たのかと思って振り返った。
でも、そこに立っていたのはこの喫茶店の店員だった。その女性は背中で揺れるストレートの髪をふわりと浮き上がらせ、私の前へと近づいてくると、「大丈夫ですか? 寒くありませんか?」と言った。
私は正直に「寒いです」と言った。
「中でお待ちいただいた方がいいと思います……風邪を引いてしまいますので」
「でも、ここで待ち合わせたんです」
私は苦笑して言った。
「テラスを閉める時間が近づいていますし、中でブレンドコーヒーでもいかがですか?」
私は俊巡した後、「わかりました」とうなずいた。
掌でしっかりと握り締めていた小さな箱をコートのポケットへ滑り込ませ、鞄を受け取った。
中へと入ると、たくさんの人々の声で溢れていて、明るい照明の下、木製のテーブルや椅子が狭い店内に詰め込まれていた。おそらく彼女がテラスを選んだのは、ゆっくりと二人で話したかった為だろう。
角の席に案内されて座ると、その店員の女性が間もなくブレンドコーヒーを運んできた。
「すみません。気を遣わせてしまって」
「いいんですよ。こういう時に飲むコーヒーが一番最高に美味しいんです」
彼女はそう言って、カップの中の水面を少しも揺らがせず、すっとテーブルに置いた。そして一礼し、去っていった。
私は寒さで震えていた手を伸ばし、カップをつかんだ。ゆっくりとそれを口に含む。
とにかく甘いコーヒーだった。いや、砂糖などは一切入っていないのだけれど、舌にすんなりと馴染む飲みやすさで、その苦みさえも甘く感じてしまう……比喩ではなくとても甘い、おいしいコーヒーだった。
私は腕時計をちらりと見て、確認した。五時四十分。
彼女はやはり、私の想いを受け取らなかったのだ。そう思うと、苦笑が漏れてしまった。
けれど、そこであのきびきびした足音がこちらに近づいてきた。見ると、先ほどの女性店員だった。手にカップを持っている。お代わりをサービスしてくれるのか、と私は驚いたけれど、彼女はただ黙礼し、それを私の向かい側に置いた。
そして、去っていく。どうして誰もいない席にコーヒーが置かれたのかと私は呆然としていたが、そこでカランと小気味良い音が鳴って誰かが入ってきた。
私は振り向き――そして、胸が跳ね上がった。
加代子が息を切らせて駆け寄ってきたのだ。
「遅れてごめんなさい!」
彼女はそう言って席に座った。その顔は不安げで私を恐る恐る見つめてくる。
「こんなに、遅れてしまって、私……」
「いや、いいんだ。それより、そのコーヒー、飲むといいよ」
私はふっと笑い、そのカップを指し示した。彼女は潤んだ目をカップに向けてうなずき、手に取った。
そっと口紅が載った唇を開き、コーヒーを流し込む。すると、彼女が目を見開く。
「こういう時に飲むコーヒーが一番最高に美味しいんだってさ」
私が微笑むと、彼女は心からほっとしたような笑みを浮かべた。
「ええ、本当に。不安だった時に、優しい言葉をもらえて、その温かさが肌に染みるものね」
彼女はそう言って一輪のバラのように微笑んだ。私はうなずき、ポケットに入れていたその箱を取り出す。そうして言った。
「結婚して下さい」
その女性店員が何故加代子の分を置いたのか、今でもわからないけれど、きっとただ私と彼女のことを想って置いてくれたのだと思う。
それが今でも消えない温かみとなって私の心に残っている。
心から寒いと感じた時、一杯のコーヒーを淹れてみて下さい。
そうすれば、とりあえずはほっと暖かくなります。
あの女性店員はそう言っている気がした。
作品名:寒いなら、一杯のコーヒーを 作家名:御手紙 葉