ごめんね、ごめんね、ごめんね(星の砂SSコンテスト 落選作)
「ママ、ママ、ママ、見て、見て、見て」
三歳になる息子、康彦の無邪気な言葉……その言葉に結衣はどきりとした。
(そんなはずないわよね……ただの偶然よね、そうよ、まだ三つの子供だもの……)
「パパの絵描いたの、パパの絵描いたの、パパの絵描いたの」
また同じ言葉を三つ重ねる。
それは、結衣にある男を連想させてしまう、かつて愛し、そして棄てた男を……。
「上手? 上手? 上手?」
「あのね、同じことを三回も言わなくていいのよ、一回聞けばわかるんだからね」
その男……祐介も同じ言葉を三つ重ねる癖があった……。
「早く行こう、早く行こう、早く行こう、」
「これ美味いね、これ美味いね、これ美味いね」
祐介にも注意したことがあったっけ、同じ言葉を重ねなくてもわかるって……。
祐介はだらしのない男だった、結衣にきつく言われてバイトを始めるのだが、半月と続かない……。
でも……。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
「愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ」
そんな風に言われ、頬ずりされると腹立ちは収まり、唇を指でなぞるようにされると、その度に祐介の腕の中に落ちてしまった……。
「康彦、さっきも言ったでしょう? 同じことを三回も繰り返さなくていいの」
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
それは、何度も何度も聞かされた言葉……結衣は凍りついた。
そして、康彦は頬ずりして来る。
(まさか……そんなことがあるはずが……)
結衣は呆然として、康彦に頬ずりされるままになっていた……。
結衣は元々上昇志向が強い。
名門お嬢様学校として知られる女子大、結衣は公立高校からその女子大に入学した。
入学してからも、本物のお嬢様たちに合わせるのは骨が折れた、金銭感覚がまるで違うのだ。
しかし、結衣は密かにアルバイトに精を出して彼女達に合わせ、そうやって親しくなったお嬢様、麗美のコネを利用して一流企業へ。
その全ては玉の輿に乗るため。
そして、首尾良く一人の男を虜にすることに成功した。
それが今の夫、康雄だ。
根っから真面目で優しい男……直属の上司、一回り年上の係長だった。
野心的な男ではないが勤勉で有能、課長、上手くすれば部長までは行くだろう……。
康雄との交際が続く中、結衣は祐介と知り合った。
当時、麗美が、アマチュア・ロックバンドのボーカリストに熱を上げていて、よくライブハウスに付き合わされた、祐介はそこのベーシストだったのだ。
三つ年下の、甲斐性のない男……本来眼中にない類いの男だったことは間違いない。
しかし、康雄と結婚を前提とした交際を続けて行くには、どこか無理をしていたのだろう。
結衣は祐介の子供っぽさ、ふわふわと捉えどころのない軽さに惹かれてしまった。
二股をかけるのはそう難しくはなかった、康雄は決して結衣を疑わなかったし、残業や出張も度々だったから。
いずれは別れなければならない男……しかし、結衣は祐介との関係を中々断ち切れなかった。
ようやく祐介と別れる決心が付いたのは、康雄からプロポーズを受けた時のことだった。
「不束者ですが、どうぞ末永く……」
結衣は、そう答えながら心を決めた……それは辛いことだったが……。
祐介のアパートを訪れた時、祐介はまたバイトを辞めて来てゴロゴロしていた。
「わかる? 私はあなたみたいにゴロゴロしてばかりいる人に、自分の将来を委ねることはできないの! 何度言っても、祐介は働こうとすらしないじゃない!」
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
そういいながら祐介は頬を寄せて来る……唇に触れられたら、またいつもの通り……。
「もうダメ、私ね、プロポーズされたの、ウチの会社のエリートよ、彼になら私の人生を委ねられる……わかる? 祐介とは大違いなのよ!」
そう言い放って祐介を突き飛ばし、外へと駆け出した。
しばらく走り続けて、昂ぶった気持ちが収まって来ると、寂しさが襲って来た。
祐介と康雄……どちらをより愛しているかと聞かれれば……祐介の方だ。
しかし、祐介には人生を委ねられない……。
とぼとぼと歩いていると、メールが届いた。
【本当はわかってたんだ、結衣は俺なんかとはつりあわないって……その人と幸せになってね、今までこんな俺と付き合ってくれてありがとう……ごめんね、ごめんね、ごめんね】
結衣はスマホを胸に抱いてしゃがみ込んで泣いた……涙が涸れ果てるまで……。
そして、結衣は康雄と結婚した。
途中、寄り道はあったものの、人生は計画通りに進んでいる。
夫は優しく家庭的、望みは何でも叶う……そんな暮らしの中で、祐介の影は次第に薄れて行った。
「わ~、ちっちゃ~い、カワイイ~」
康彦を産んだ時、産院に見舞いに来たのは麗美。
彼女はあのボーカリストとまだ付き合っていて、さすがに親も根負けしそう、と言うところまで行っていた。
「あのね、彼がね……」
どうやら赤ん坊も彼女にとってはお人形と変わらないらしい、ひとしきり『カワイイ』を連発すると、また彼とのノロケ話をたっぷり聞かされた。
その帰りがけのことだ。
「あ、そうそう、彼のバンドのベーシスト憶えてる?」
祐介とのことは彼女にも秘密にしていた、漏れれば今の満ち足りた暮らしにひびが入りかねない、結衣は思わず身構えたのだが……。
「彼ね、亡くなったんだって」
一瞬、眩暈を覚えたが、何とか平静を装った。
「どうして? まだ若いのに」
「橋から落ちたんだって」
結衣の脳裏を、祐介が橋から落ちて行く光景がフラッシュのように駆け抜けた。
「……もしかして、自殺?」
「わかんない、警察は事故と自殺の両方から調べてるらしいけどね……あ、いけない! 彼との約束に遅れちゃう、じゃあね、結衣、お大事に~」
麗美はそのまま出て行ったが、結衣の心は乱れたまま……。
祐介は高い所が好きで、屋上の手すりの上を歩いて見せて結衣をヒヤヒヤさせたことも一度や二度ではない、単なる事故である可能性は充分だ。
祐介と別れてからもう三年経っている、今更自殺なんてありえない……と考えようとするのだが、いくらそう自分に言い聞かせても、一度芽生えた疑念は消し去ることができない……。
そして、その疑念を胸に抱きながら、更に三年の月日を過ごして来た。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
はっと気付くと、康彦はまだ頬をすりつけながら繰り返している。
祐介にさんざん聞かされたあの言葉を……。
結衣は康彦の肩を乱暴につかみ、正対させた。
「やめなさい!」
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
康彦はなおも言葉を重ねながら、小さな手を結衣に向けて伸ばして来る、そして、その指が唇に触れた瞬間、結衣の中で康彦と祐介が重なった……。
「だ、だめよ……」
結衣が押しのけようとすると、祐介は怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうしたの? どうしたの? どうしたの?」
寂しそうな顔で再び指を伸ばして来る。
「好きだよ、好きだよ、好きだよ」
唇に触れられた……そして腕が首に回って来る。
(だめ……このまま抱きしめられたら、私……)
結衣は、迫って来る祐介の顔を押しのけて叫んだ。
三歳になる息子、康彦の無邪気な言葉……その言葉に結衣はどきりとした。
(そんなはずないわよね……ただの偶然よね、そうよ、まだ三つの子供だもの……)
「パパの絵描いたの、パパの絵描いたの、パパの絵描いたの」
また同じ言葉を三つ重ねる。
それは、結衣にある男を連想させてしまう、かつて愛し、そして棄てた男を……。
「上手? 上手? 上手?」
「あのね、同じことを三回も言わなくていいのよ、一回聞けばわかるんだからね」
その男……祐介も同じ言葉を三つ重ねる癖があった……。
「早く行こう、早く行こう、早く行こう、」
「これ美味いね、これ美味いね、これ美味いね」
祐介にも注意したことがあったっけ、同じ言葉を重ねなくてもわかるって……。
祐介はだらしのない男だった、結衣にきつく言われてバイトを始めるのだが、半月と続かない……。
でも……。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
「愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ」
そんな風に言われ、頬ずりされると腹立ちは収まり、唇を指でなぞるようにされると、その度に祐介の腕の中に落ちてしまった……。
「康彦、さっきも言ったでしょう? 同じことを三回も繰り返さなくていいの」
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
それは、何度も何度も聞かされた言葉……結衣は凍りついた。
そして、康彦は頬ずりして来る。
(まさか……そんなことがあるはずが……)
結衣は呆然として、康彦に頬ずりされるままになっていた……。
結衣は元々上昇志向が強い。
名門お嬢様学校として知られる女子大、結衣は公立高校からその女子大に入学した。
入学してからも、本物のお嬢様たちに合わせるのは骨が折れた、金銭感覚がまるで違うのだ。
しかし、結衣は密かにアルバイトに精を出して彼女達に合わせ、そうやって親しくなったお嬢様、麗美のコネを利用して一流企業へ。
その全ては玉の輿に乗るため。
そして、首尾良く一人の男を虜にすることに成功した。
それが今の夫、康雄だ。
根っから真面目で優しい男……直属の上司、一回り年上の係長だった。
野心的な男ではないが勤勉で有能、課長、上手くすれば部長までは行くだろう……。
康雄との交際が続く中、結衣は祐介と知り合った。
当時、麗美が、アマチュア・ロックバンドのボーカリストに熱を上げていて、よくライブハウスに付き合わされた、祐介はそこのベーシストだったのだ。
三つ年下の、甲斐性のない男……本来眼中にない類いの男だったことは間違いない。
しかし、康雄と結婚を前提とした交際を続けて行くには、どこか無理をしていたのだろう。
結衣は祐介の子供っぽさ、ふわふわと捉えどころのない軽さに惹かれてしまった。
二股をかけるのはそう難しくはなかった、康雄は決して結衣を疑わなかったし、残業や出張も度々だったから。
いずれは別れなければならない男……しかし、結衣は祐介との関係を中々断ち切れなかった。
ようやく祐介と別れる決心が付いたのは、康雄からプロポーズを受けた時のことだった。
「不束者ですが、どうぞ末永く……」
結衣は、そう答えながら心を決めた……それは辛いことだったが……。
祐介のアパートを訪れた時、祐介はまたバイトを辞めて来てゴロゴロしていた。
「わかる? 私はあなたみたいにゴロゴロしてばかりいる人に、自分の将来を委ねることはできないの! 何度言っても、祐介は働こうとすらしないじゃない!」
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
そういいながら祐介は頬を寄せて来る……唇に触れられたら、またいつもの通り……。
「もうダメ、私ね、プロポーズされたの、ウチの会社のエリートよ、彼になら私の人生を委ねられる……わかる? 祐介とは大違いなのよ!」
そう言い放って祐介を突き飛ばし、外へと駆け出した。
しばらく走り続けて、昂ぶった気持ちが収まって来ると、寂しさが襲って来た。
祐介と康雄……どちらをより愛しているかと聞かれれば……祐介の方だ。
しかし、祐介には人生を委ねられない……。
とぼとぼと歩いていると、メールが届いた。
【本当はわかってたんだ、結衣は俺なんかとはつりあわないって……その人と幸せになってね、今までこんな俺と付き合ってくれてありがとう……ごめんね、ごめんね、ごめんね】
結衣はスマホを胸に抱いてしゃがみ込んで泣いた……涙が涸れ果てるまで……。
そして、結衣は康雄と結婚した。
途中、寄り道はあったものの、人生は計画通りに進んでいる。
夫は優しく家庭的、望みは何でも叶う……そんな暮らしの中で、祐介の影は次第に薄れて行った。
「わ~、ちっちゃ~い、カワイイ~」
康彦を産んだ時、産院に見舞いに来たのは麗美。
彼女はあのボーカリストとまだ付き合っていて、さすがに親も根負けしそう、と言うところまで行っていた。
「あのね、彼がね……」
どうやら赤ん坊も彼女にとってはお人形と変わらないらしい、ひとしきり『カワイイ』を連発すると、また彼とのノロケ話をたっぷり聞かされた。
その帰りがけのことだ。
「あ、そうそう、彼のバンドのベーシスト憶えてる?」
祐介とのことは彼女にも秘密にしていた、漏れれば今の満ち足りた暮らしにひびが入りかねない、結衣は思わず身構えたのだが……。
「彼ね、亡くなったんだって」
一瞬、眩暈を覚えたが、何とか平静を装った。
「どうして? まだ若いのに」
「橋から落ちたんだって」
結衣の脳裏を、祐介が橋から落ちて行く光景がフラッシュのように駆け抜けた。
「……もしかして、自殺?」
「わかんない、警察は事故と自殺の両方から調べてるらしいけどね……あ、いけない! 彼との約束に遅れちゃう、じゃあね、結衣、お大事に~」
麗美はそのまま出て行ったが、結衣の心は乱れたまま……。
祐介は高い所が好きで、屋上の手すりの上を歩いて見せて結衣をヒヤヒヤさせたことも一度や二度ではない、単なる事故である可能性は充分だ。
祐介と別れてからもう三年経っている、今更自殺なんてありえない……と考えようとするのだが、いくらそう自分に言い聞かせても、一度芽生えた疑念は消し去ることができない……。
そして、その疑念を胸に抱きながら、更に三年の月日を過ごして来た。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
はっと気付くと、康彦はまだ頬をすりつけながら繰り返している。
祐介にさんざん聞かされたあの言葉を……。
結衣は康彦の肩を乱暴につかみ、正対させた。
「やめなさい!」
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
康彦はなおも言葉を重ねながら、小さな手を結衣に向けて伸ばして来る、そして、その指が唇に触れた瞬間、結衣の中で康彦と祐介が重なった……。
「だ、だめよ……」
結衣が押しのけようとすると、祐介は怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうしたの? どうしたの? どうしたの?」
寂しそうな顔で再び指を伸ばして来る。
「好きだよ、好きだよ、好きだよ」
唇に触れられた……そして腕が首に回って来る。
(だめ……このまま抱きしめられたら、私……)
結衣は、迫って来る祐介の顔を押しのけて叫んだ。
作品名:ごめんね、ごめんね、ごめんね(星の砂SSコンテスト 落選作) 作家名:ST