天気雨
一人で温泉街をぶらついていたら、突然雨が降ってきた。僕は慌てて手拭を頭に乗せて、茶店の屋根の下に隠れた。どうやら、天気雨らしかった。僕はぼんやりと空模様を見つめながら、仕事のことでもない、恋人のことでもない……、ある本のことを思い出した。
そこには天気雨、という題の小説が綴られていたのだ。曰く、天気雨は私にとって、陽気なソングと一緒なのだ、とか。全く意味の分からない説明だが、それでも僕はその一節が気に入っていた。
僕はその本に従って、陽気な歌を口にした。雨は次第に収まっていき、やがて再び鳥達の歌声が聞こえてきた。そこでふと……茶店の奥で、こちらをじっと見つめている、その娘と目が合った。
「天気雨、ここしばらくはなかったのですが……」
娘はそう言って、ぎこちなく笑ってみせた。私はようやく勝手に入っていたことを思い出して、そしてそっと頭を下げながら言った。
「それじゃあ、せっかくなので、抹茶セットをお願いしますね」
「はい、ありがとうございます!」
彼女はそう言うと、せっせとお茶の支度を始めた。僕はぼんやりと彼女の背中を見つめていたが、やがて床机に腰を下ろした。
どうも、この温泉に来てからは肩の力が抜けたのか、いつものような憂鬱さは感じられなくなっていた。原稿は途中まで書いたが、すぐに放り出してしまった。今はこの土地のほんわかとした空気を味わっていたかったのだ。
「はい、お待たせしました」
彼女は抹茶とようかんを持ってきた。僕はありがとう、と再び会釈して、そっと抹茶を飲み始めた。
「ここの温泉、とてもいい湯でしょう?」
娘が少しだけ打ち解けたように言った。僕はそっと器から手を離すと、静かに言葉を紡ぐ。
「どうでもいいことを忘れられて、最高の土地ですよ、ここは」
「はい。私も三年前からここにいますが、すごく大好きです、本当に」
彼女はそう言って、空へと上がっている煙の方を見た。
「天気雨で思い出したのですが、ある作家がその題で小説を書いたんです。確か、天気雨は陽気なソングと一緒なのだ、とか」
僕は一瞬ようかんを刺した爪楊枝を振り落しそうになってしまった。そして、大きく笑って、彼女にその想いを語った。
「私も今、その一節を思い出していたんですよ。本……お読みになるんですか?」
「はい、大好きです。仕事でもらったお金の大半は、それに消えていきます」
彼女は先程の大人しい様子が嘘のように、身を乗り出してきらきらした目で語った。僕は何となくその目の輝きが嬉しかった。
「ちなみに、お客様は物書きの方でいらっしゃいますか?」
「ええ。名も売れていない小説家ですよ」
僕はそう言って頭を掻き、誤魔化すように笑った。
「私、好きな作家を挙げるときりがないのですが、森鴎外、夏目漱石、司馬遼太郎、泉鏡花、他にも現代作家も大好きです。今はまってるのは、則戸しばと言う人です」
「ほう、それはどんな作家ですか?」
僕は身を乗り出して、彼女の答えを待った。
「文章が奇天烈で、他の人には書けないような個性を持っていますよ。それなのに、ストーリーは現実的で、堅実派ですね。その矛盾が本当に読んでいて、心地良いんですよ。一番好きな作家ですからね」
僕は彼女の満面の笑顔を見つめながら口を開きかけたが、すぐに俯き、そっと静かに微笑んでしまう。
「そいつ……会ったことがありますよ。のんびりしていて仕事もあまりやらず、色んなところを放浪している男でした。でも、不思議と好きですよ、その人」
「本当ですか? 彼に何度もファンレターを送ったんです。返事も寄越してくれて、大切に仕舞ってありますよ」
僕はお茶に視線を落として啜っていたが、脳裏にその一つ一つの文面を思い起して、口元に笑みを浮かべた。
「お名前は?」
「清水杏です。私もいつか先生に会いたいなって思ってます」
僕はもう一度彼女の顔をじっと見据えて、やがて小さくうなずいてみせた。
「清水杏さんっていう人の、便りのことを何度も口にしていましたよ。すごく嬉しい感想をくれる娘がいるって」
彼女の目が見開かれて、星々の煌めきのようにぱっと輝いた。
「本当ですか!? やだ……私の手紙、やっぱりちゃんと読んでくださったんだわ!」
「これからもあいつの作品を楽しみにしてあげてくださいね」
僕はお茶を飲み終わり、席を立った。茶店の娘は大きくうなずいて、必ずですよ、と笑った。
僕は頭を下げながら、足取りが遅くなるのを鞭打って、温泉街の方へと歩いていった。そんな中、その娘が背後で立って、視線を送っていることに気付いていた。
僕は彼女の言葉を繰り返し繰り返し胸に反芻しながら、口元が緩むのを抑えられなかった。確かに清水杏は僕の第一の読者だった。全然売れていない頃にも便りを送ってくれて、作品のことを何枚も、何十枚も語ってくれたのだ。それが本当に嬉しかったのを、今でもはっきりと覚えていた。
僕は坂を下りながら目を閉じて、陽気なソングを唄い出す。それは天気雨がもたらした、不思議な巡り合わせへ最大の賛辞を贈る、僕の唯一の純粋な心だったのだ。
了