夢見が丘
イヤホンを外すといつもの騒がしさが耳を包んだ。愛衣は今朝もイスに座りひとりで腕枕をしながらボウっと教室を眺めていた。まだ担任は来ていない。教室の空気が一瞬変わったかと思ったが気のせいだろう。
「ねぇ、それって本当なの?」
ひと際大きくて甲高い声が聞こえた。
騒ぎの中心にいるのは委員長の倉本だった。どうやら教室の空気が変わったのは気のせいではないらしい。
「うん。落ちたんだって。」
「えぇー嘘でしょう?」
『落ちた』このフレイズを耳にした瞬間に愛衣は「またか」と思った。いつものように誰かがあの丘から落ちたのだろう。
『夢見が丘』―――そうあの丘は呼ばれている。
愛衣の住むY町は日本海に面している。そのため夏は晴天が多く、高校の近くのビーチにも多くの人々が訪れる。そんな活気あふれるビーチの奥、ブラックコーヒーにすこしミルクを足したような、不気味な岩がひしめく岩場。その上を見上げると、その丘、夢見が丘はある。
丘の上から日本海が一望できるとあって丘は知る人ぞ知る隠れ人気スポットだった。しかし先月の台風以来、妙な噂がささやかれるようになった。丘に行くと幸せな気分になる、というのだ。しかし逆に具合が悪くなって吐いた者もいるという。
「また誰か幻覚でも見たのかな。」
知らない間に愛衣の隣には友人である香織が立っていた。
「急に話しかけないでよ。ビックリするじゃない。おはよ。相変わらず遅刻ギリギリね。」
「何よまた一人で音楽聴いちゃって。私以外に話す子いないの?」
笑いながら香織は言った。
「ほっといてよ。それに、あんたもでしょ。」
「そうね。」
「それで、幻覚って何?」
「ああ、あの丘に行くとなんか変な気持ちになるっていう噂は知ってるでしょう?」
「ええ。」
「それでね、丘の奥、つまりすぐ下がゴロゴロした岩場の場所。そこまで行くと幻覚が見えるっていう噂を最近聞いてね。」
「じゃあ、その落ちた人っていうのも幻覚を見て・・・」
「お前ら、席に着け。もうとっくにチャイムは鳴ってるぞ。」
「あ、加藤が来た。じゃ、後でね。」
そう言うと香織はそそくさと自分の席へ行ってしまった。加藤め、良いところだったというのに。愛衣は加藤を睨んだ。すると、
「先生・・・石田君が・・・」
倉本が今にも泣きそうな顔で教壇へと駆け寄った。
「ああ・・・倉本か・・・まあ座りなさい。今話すから。」
「でも・・・」
「倉本、席に、座れ!」
クラスがまるで映画の音の無いスローモーションシーンのように急に静かになった。倉本はクラスに今まで見せたことのない般若のお面のような顔で怒鳴った。その声は担任が来てるにも関わらず四方八方に散らばっている生徒たちに改めてこの場所が規律のある学校なのだと感じさせた。
「はい・・・」
一方倉本は生気を吸われたミイラのように席に着いた。他の生徒も静かに自分の席へ向かう。
教壇に立った加藤はまるで最初のホームルームの時のように顔がこわばり、心なしか震えて見えた。
「えー、みんなの中には知っている人もいるかもしれんが、あのな・・・うちのクラスの石田が丘から落ちて、亡くなった。」
クラスがどよめいた。それは、『どよめいた』というより夏の海の波のように静かな生徒たちの悲鳴だった。