師匠と弟子と 6
楽屋に入った師匠は着物を脱いて行く。俺はそれを一旦着物掛けに掛ける。先程の着物は既に畳んで鞄にしまってある。
「素晴らしい出来でしたね」
そう言うと師匠は
「そうかい。なら良かったよ。だがお前は噺家だ。只良かっただけじゃ済まないんだぞ。そこを判っているのか?」
「はい。判っているつもりです」
「なら何も言わねえ。結果を楽しみにしてるぜ」
判っているつもりだった。あの噺で師匠が俺に何を伝えたかったか……。
その後は近くの居酒屋で打ち上げになった。そこには師匠と俺の他、世話役の青木さんやお茶子さん。津軽三味線の師匠達。それに色々な雑用をしてくれたスタッフがいた。その他にも後援会の会長や会員が大勢参加していた。師匠はスタッフ皆にお酒を注いで回っている。俺は後援会の人にお酌をして歩いた。そうしたらある女性から
「鮎太郎ちゃん。今回はぁ二つ目で来てくれてぇ嬉しかった! 噺も聴けたしねぇ~」
そんな事を言ってくれた
「でも俺受けなかったから」
「そんなことはないよ。そんなことはない! あんたは、弟子を取らない方針だった遊蔵師匠が方針を変えるほどの資質だったんだから」
「え?」
「え、じゃねえって! そうなの! ほれ、あんたも呑みんさい」
そう言ってコップに波波とお酒を注ぐと俺に持たせた。俺はこれは断れないと判断してそれを一気に煽った。その後は記憶が曖昧になった。
翌朝、飲み過ぎで痛む頭を抱えて青木さんの運転する車に乗っていた。師匠も青木さんも俺よりも遥かに呑んだのに平気な顔をしている。
時間があったので、駅のお土産屋さんで梨奈ちゃんのお土産を物色する事にした。青森産のりんご「ふじ」の半生ドライアップルをブラックチョコでコーティングした「つまんでリンゴ」と言うお菓子の詰め合わせにした。理由はいかにも美味しそうに見えたのと、師匠が何気なく
「これ美味しいんだよな。確か家族皆好きだったな」
そんなことを言っていたからだ。だから師匠も買うのかと思っていたら、別なものを買っていた。それに青木さんが何やら持たせてくれたから、それ以上の荷物になるのを避けたのかも知れない。
新幹線が走り出すと、景色は白一色になる。この北の国に春が来るには未だ一月以上ある。桜が咲くのはGWの頃だ。師匠は暫く窓の外を眺めていたが
「おう、お前のスマホ貸せ。退屈だから落語でも聴いてる事にした」
そんな事を言ったので自分の鞄からスマホを出してミュージックプレイヤーを立ち上げてプレイリストの落語を表示させた。その演目を眺めながら
「いい趣味してるじゃねえか。暫く借りるぜ」
そう言ってイヤホンとスマホを自分の手に納めて耳に入れようとした時だった。
「そういや、お前ウチの娘といい関係なんだって?」
とんでもない事を言いだした。俺はシドロモドロになりながら
「いや、あのう……いい関係だなんてとんでもない」
「何だ違うのか、じゃあ気がねえのか?」
「いえそんな事はなく……」
「じゃあるのか?」
「あ、は、はい」
「そうかい。ならこれだけは言っておく。あいつは相当なじゃじゃ馬だからな。扱いには苦労するぞ。俺やカミさんに仕えるより数倍苦労するからな。その辺を理解しておけよ」
師匠は知っていたのだ。俺が梨奈ちゃんに気がある事や彼女が何気に俺に色々としてくれている事を。
「知っていたのですね」
「普通気がつくだろう同じ屋根の下で暮らしてるんだし、お前は二つ目になったのにやたらウチに来るし。これは何かあると判るだろう」
「すいません」
「謝る事なんかねえ。だけど付き合うなら上手くやれよ。芸と恋愛は別だから。失恋したからって破門にはしねえ。それだけは覚えておけ」
師匠は、そう言うとイヤホンを両耳に挿して落語を聴き始めた。その後は上野に着くまで黙って落語を聴いていた。
師匠の家に到着すると真っ先に梨奈ちゃんが出迎えてくれた
「お帰り! 思ったより元気なんで安心した」
「立ち直ったんだ。これお土産。大したものでは無いけど」
そう言って「つまんでリンゴ」を出すと
「あ、これ好きなんだ! ありがとう! でも、わたしの好きなのが良く判ったわね」
そう言って喜んでくれた。俺は帰りの列車での事が頭を過ぎったが、梨奈ちゃんには黙っている事にした。
「何となく梨奈ちゃんが好きそうだと感じたんだ」
これぐらいのウソは方便だよなと思う事にした。
「あのね。荷物を整理したら、わたしの部屋に来て」
梨奈ちゃんはそう言って二階の自分の部屋に上がって行ってしまった。俺は師匠の着物や帯、長襦袢などを整理すると二階の梨奈ちゃんの部屋に上がって行った。ドアを軽くノックすると中から
「どうぞ」
返事がしたので、開けて入らせて貰う。梨奈ちゃんの部屋に入るのは久しぶりで、彼女が中学生の頃以来だった。
梨奈ちゃんは自分のベッドに腰掛けていた。薄いグレーの地に青のストライプが入ったブラウスに白地に同じ青の水玉のスカートを履いていた。白いソックスのレースが可愛かった。
梨奈ちゃんは俺の姿を見ると
「ドア閉めて」
そう言って俺に入り口のドアを閉めさせた。そして立ち上がると
「目を瞑って」
まるでお願いをするような言い方をした。俺は言われる儘に目を閉じた。その次の瞬間。唇に柔らかな感触を感じた。思わす目を開けてしまった。すると目の前に梨奈ちゃんの顔があった。
「あん。ちゃんと目を瞑っていないと駄目じゃない」
「これって……」
「約束! この前言ったでしょう。次は唇にしてあげるって」
ほんの軽く触れただけの「フレンチ・キス」
でも俺はこの日この時を一生忘れないだろう。