薄羽蜉蝣
白い箱の中の、唯一青い部分を眺めながら栄子はつぶやいた。
白い箱の中にいる栄子は、白い服を身につけ白いベッドに座り、今にもその白に溶け込んでしまいそうだった。
「大人になるには、ご飯を食べなきゃ」
歩く人々は、誰一人きりの存在に見抜きもしない、無関心の街だった。
きりは足早な彼らに流されることもなく、ただじっとそこに立っていた。
ふと、少し離れた場所で白い帽子が揺れた。白い帽子の人はゆっくりきりとの距離を縮めていく。あと数メートルといったところで、帽子の人もこちらの存在に気づいた。
無関心のこの街で、きりは初めて人と目を合わせた。
「小宮谷さん?」
白い帽子の女性は柔らかく微笑んだ。
「うざいんだよお前。もう学校くんなよ!」
罵声と共に少年の手からきり目がけて投げられたものは、雨上がりでどろどろになった校庭の土だった。
茶色い物体は、きりの右のこめかみに当たった。かけていた眼鏡が衝撃でずり落ちる。
顔についた泥をふき取ることもせず、きりは家に帰る道を一人歩いた。通り過ぎる人々は、きりをまるで人間ではない別の生き物を見るような目で一瞥していく。
うつむきながら歩くきりの視界に、ふわふわと白いものが目に入った。顔をあげると、白い肌と白い服を身にまとった少女が微笑んでこちらを見ていた。
「あなた、幸せ?」
この子はおかしなことを聞くんだなあと、きりはぼんやり思った。どこに顔を泥まみれにした幸せな少年がいるというのだろう。
しかし少年の口から出た言葉は、これまたその状況に似つかわしくないものだった。
「幸せだよ」
少女はきりの言葉にいっそう微笑みを深めて、細く白い腕を差し出した。
「じゃあ、こっちに来て」
「あなたの幸せわけて」
きりは迷うこともせず少女の手に答えた。
吸い込まれるように。いや、引きずり込まれるように。
きりと栄子は喫茶店の窓際の席に腰をおろした。
「ごゆっくりどうぞ」
二人の前に一つずつお冷やを置き、店員が頭を下げて店の奥に戻っていった。
「十年ぶりくらいになりますかね」
カランとコップの中の氷を鳴らしながら、きりが口を開いた。
「十年・・・あれからそんなに経つんですね」
栄子は、そっとつぶやいた。白い帽子は、変わらず栄子の顔に影を作っている。
「あの時、あなたが病院から抜けだしていたと知った時は、心底驚きました。その後、お体はいかがですか」
「ええ、おかげさまで」
にっこりと笑った栄子につられるように、きりも笑みを浮かべた。しばらく手の中で遊ばせていたお冷やを、一気に口へと流し込む。
「僕たちも大人になってしまいましたね」
「……そうですね」
「でも羽は生えなかった」
「ええ」
「そもそも羽が生えたところで、それは空を飛べるような立派なものではないのでしょうね」
「大人になるには、アリを食べなきゃいけないの。地獄に落とさなきゃいけないの」
夕暮れに溶け込むような真っ赤なトンボを少女は指差した。
「それでね、アリを食べたら、大人になれるのよ」
二人はしっかりと手を繋いでいた。足場は不安定で、やっとそこに立っているような状態で、少しの風で二人は闇へ吸い込まれていきそうな。
「大人になったら羽が生えるの」
「空を飛べるの」
けれどその羽はとても弱弱しく。
「アリさんも一緒に」
「自由に」
二人は空を飛んだ。
「あら?」
先程お冷やを運んだテーブルを見て、店員の女性はおかしな声をあげた。
「ねえちょっと」
「ん?」
「ここにカップルのお客さんいなかったっけ?」
「え?ここにはさっきから誰もいなかったわよ?このお水あなたが出したの?」
「確かにいたのよここに」
「ちょっと大丈夫疲れてるんじゃない?」
片付けたコップの片方は、中見が空になっていた。