クリスマスの、二つの裏切り
「ねえ、本当に彼女を放っておいて良かったの?」
三嶋さんが心配そうに僕の瞳を覗き込んでくる。僕は笑いながら、「大丈夫だよ」と言った。
「もう彼女とは別れようと思ってるから」
すると、三嶋さんは目を見開き、視線を彷徨わせた後、「そう、なんだ」と赤い顔で俯いた。
そう、もう明美は僕には必要ない。明美だって僕を必要としていないんだから。
「ごめん。クリスマスに仕事手伝わせちゃって」
「いいんだよ、三嶋さんの為なら」
三嶋さんが潤んだ瞳をもう一度こちらに向けてくる。僕はにっこりと微笑み、彼女にうなずいてみせた。
彼女は赤みがかった頬を緩ませて、「ありがとう」と笑ってくれた。
この笑顔の為なら、僕は何をすることだってできるだろう。例え恋人を捨てて、卑劣な真似をしようとも。
僕はそっと三嶋さんの手を握った。彼女の指が震えて跳ねるけれど、彼女はすぐに強く握り返してくる。
「僕が今、好きな人は三嶋さんだけだから」
そう微かに熱を帯びた声で言うと、三嶋さんは目に涙を溜めて微笑みを見せてくれる。
嬉しい、と彼女の唇から言葉が漏れた。
「ここの店だから」
彼女はまだ耳を赤くしながら掻き消えそうな声で言って、中に入った。
そうしてクリスマスケーキの販売が始まり、僕は急遽準備された応援として彼女を精一杯サポートした。
三嶋さんは笑顔を振り撒いて、心から嬉しそうにケーキを手渡している。
僕もそんな彼女を見て、ふっと微笑んだ。
だが、そんな時――。
往来の中に、栗色のショートヘアーが見えた。そのカールを巻いた癖っ毛は人込みの中でも目立つ。
小柄なその体が人々の腕の隙間から見え隠れした。まさか、と思ったけれど、そのほっそりとした顔立ちは間違いなく明美だった。
彼女は何故かまっすぐこちらへと近づいてくる。目が合いそうになり、僕は慌てて他の売り子の背後に回って作業している振りをした。
すると程なくして、店先にその耳に染み付く高い声が聞こえてきた。
「すみません、クリスマスケーキ一つ下さい!」
その声は明るく、全く悲しみも不安も、迷いさえも感じられないものだった。僕には気付いていないみたいだった。
「ありがとうございます。どれに致しましょうか?」
「じゃあ、これで」
やり取りしているのは、三嶋さんみたいだった。二人は楽しげに話し始めた。
「誰かとケーキ、一緒に食べるんですか?」
「はい。さっきまで待ち合わせていたんですけど、彼、来なくて。きっと何か用事があるんだと思います。でも、絶対に私の元に来ます」
その言葉の響きに、僕の胸に何か細い刃がぐさりと突き刺さった気がした。
「あの、最近私達喧嘩ばかりして、連絡取り合ってなくて。私も、彼が私のこと好きじゃなくなったんじゃないかと本当に心配になったんです。でも、私――」
彼のこと、本当に好きだから。
全く躊躇することなく、彼女は言った。
「本当に好きだから、まだ彼が私のこと好きでいてくれてると信じてます。きっと私の元に来るっていつまでも思っていますよ。だって私、」
彼のこと、本当に好きだから。
彼女はそう繰り返し、三嶋さんにケーキをもらい、「では」と楽しそうに去っていく。
その小さな背中が人込みの中で何度も小突かれながらも、前へと迷いなく進んでいくのを見て、大切な想いを切り捨てていた自分に初めて迷いが生じた。
明美がまだ僕のことを好きでいてくれたのに、なのに、僕は――。
自分のことだけしか考えずに、彼女を傷つけて、本当に大切な人の想いに背き、逃げ続けて――。
ぐっと拳を握った。そして、三嶋さんへと振り向く。
「三嶋さん」
頭からサンタクロースの帽子を外し、上着を脱いで、僕は頭を下げた。
「早見、君?」
彼女の身を切られるようなか細い声に、もう僕は暖かな言葉を掛けることはできなかった。
「僕にはやっぱり、彼女が必要なんだ」
そうつぶやき、駆け出した。「早見君!」と三嶋さんの悲痛な声が背中に掛かっても、僕は止まらなかった。
今はただ、彼女の涙を拭いに行こうと心に決めていた。
今度は絶対に間違えないから。大切な人の為に、彼女の本当の想いを受け止めて、僕だけの、僕にしかできないことをする。
だから――。
クリスマスを彩る往来には、男女や家族連れの楽しそうな声が飛び交っていた。
そんな暖かな日常とは程遠い寒々しい道を、僕は心の熱だけを頼りに、彼女の涙を拭いに駆けて行く。
その想いだけが、僕が彼女に与えられるクリスマスプレゼントだった。
了
作品名:クリスマスの、二つの裏切り 作家名:御手紙 葉