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御手紙 葉
御手紙 葉
novelistID. 61622
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twinkle,twinkle,little star...

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 けれど、何故か私はその空気の感触を受けて、少しだけほっとした。都会では全く感じられなかったその五感に触れると、ばらばらだった心が一つに繋がるような気がして、目の奥が熱くなる。
 私はゆっくりと歩き出し、見知った民家が続く中、周囲の風景を見渡して進んだ。広い庭を持つ民家が多くあり、どれも窓の中は消灯されていた。木造の家が多く、ひび割れや塗装の剥げた部分があったが、それでもその姿はまだ暖かさがあった。
 都会の無機質な高層ビルとは違う、心に直接触れるその人間味のある造形に肩の力が少しずつ抜けていった。
 やがて、一軒の民家の前で立ち止まった。私は塀の前で佇み、その家の屋根を見つめた。瓦が波を打っていて古くなり、けれど子供時代に見上げたそれと全く変わっていないような気がして、胸が暖かくなっていく。
 私が塀の間から玄関へと進みかけた時、扉の前に佇むその一つの影に気付いた。
 はっと目を見開く。
「おかえり。そろそろ来ると思っていたわよ」
 母はそう言ってにっこりと微笑んだ。暗闇の中でもその顔が笑っているのがわかったのは、心の中に彼女の笑顔が焼き付いているからだ。
 私は足を止めて、何かが溢れ出していくのを感じた。でも、寸前のところで堪え、ふっと微笑んで歩き出した。
 目の前まで行くと、母の姿がくっきりと浮かび上がった。
 彼女はやはり笑っていた。目の下に皺を寄せて、顔いっぱいに笑みを浮かべ、ほっそりとした体を少しも揺らせず、しっかりと地面に足を繋ぎ留めて立っていた。
 彼女は何も言わずに私をじっと見つめていたが、やがて私の肩にポンと手を置いて、うなずいてみせた。
「よく帰ってきたわね。少し貫禄が出てきたわ」
 彼女はそう言って私の背中に手を回して、中に入るように促した。私は貫禄、と小さくつぶやき、信じられなかったけれど、その気遣いに思わず微笑んでしまった。
 引き戸を開くと、小さな菱形に刻みこまれた床のタイルが明るい照明の光を跳ね返して、私の足元に広がった。私はその地面を見つめた後、ゆっくりと前方に視線を向けた。
 木目調の床が奥へと続いていて座敷が見えた。父が居間の椅子に座って、こちらに目を向けて軽く手を上げて見せた。
 私は喉が震えて、気持ちが溢れ出しそうになったが、まだ堪えよう、と思って唇を結んだ。靴を脱いで簀の子の上に上がり、ゆっくりと居間へと近づいていく。懐かしい木の匂いがその場所には満ちていた。
 クーラーを付けていないのにひんやりと涼しく、奥の縁側から風が入ってくるのがわかった。台所のすぐ前の居間にはあの古い机が置かれ、その周りには三つの椅子が置かれていた。
 父はその一つに腰を下ろし、文芸雑誌を読んでいた。眼鏡を外して、父はじっと私の顔を見つめ、よく帰ってきた、と口の周りに皺を寄せて笑ってみせた。
「お父さん、お母さん、ただいま」
 私は震える声でそう小さくつぶやき、父の向かいの椅子に腰を下ろした。母が私のスーツケースを引いて、それを廊下の隅に置くと、すぐにエプロンを付けて料理を配膳する準備を始めた。
 やはり夕食は彼女が言っていた通り、肉じゃがと赤飯、刺身で、私が好きなものばかりだった。私は彼女が黙って料理を出していくのを見つめていることしかできなかった。
 言葉が零れることはなく、何を話せばいいのかわからなかった。父は再び文芸雑誌を読み始め、軽く鼻歌を唄い出す。
 井上陽水の『なぜか上海』だとわかった。机の隅に『レ・ヴュー』のアルバムが置いてあったので、先程これをかけていたのかもしれなかった。
 私はようやく胸の痞えがなくなり、すっと呼吸がしやすくなったのを感じた。母も準備を終えて椅子に座り、食べましょうか、と言った。
「あのね、私……」
 そこからは自然に言葉が零れ出た。会社でうまくいっていないこと、もしかしたら仕事を辞めてしまうかもしれないこと、そして――。
「港さんと別れたの」
 私はそうつぶやいた瞬間、もう張り詰めていたものがプツンと切れてしまうのを感じた。涙が溢れ出してきて、もう堪えようがなかった。
 傷が走っている机の上に、ぽたぽたと涙が落ちて、それは徐々に小さな水溜まりとなって端へと流れていく。私は俯き、肩を大きく上下させて声を振り絞って泣いた。
 結婚の約束をしていた男性から突然別れの言葉を告げられて、もう連絡がつかないことを語ると、父と母の顔はショックで硬直してしまうのかと思った。
 しかし、彼らの顔に浮かんでいたのは、ただ少しだけ寂しそうな笑顔だった。
「そう。それは大変だったわね」
 母はそう言って私の手の甲に掌を重ねて、わずかに涙を浮かべた。父は私を見つめながら、ただ黙っている。
「本当に悲しいのは私達じゃなく、佐代の方だから。頑張ったわね。私達はいつも頑張っているあなたが誇らしいわ。だから、私達のことは気にせず、自分の為に泣いていいのよ」
 母はそう言って、ぽんぽんと私の掌を叩いた。私は片手で顔を覆って、子供のように泣き続けた。どんなに虫の声が反響しようとも、その大きな音を覆ってしまうほどに私の嗚咽は悲痛で、堪えようがなかった。
 でも、それでも私には帰るべき場所があったのだ、とそれだけが救いだった。私は料理の湯気がふわりと浮き上がっている食卓で、ただ何もせずに空腹も忘れて泣き続けた。
 すべてが吐き出されて空になった時、私は何故か目の前にある料理が食べたくて、貪るようにその食べ物を口の中に入れた。両親もただうなずき、いただきます、と声を零して食べ始めた。
 久しぶりに顔を合わせて料理を口に運ぶ食卓には、言葉はなかったけれど、料理の熱よりもはるかに暖かい夏の熱気が漂っていた。
 私はそのことに、ずっと忘れていた大切な何かを思い出したような気がした。それが何なのかはわからないけれど、それでも一歩、いや半歩だけ、前に踏み出せたような気がした。

 私は食卓で大泣きして涙も枯れ果てると、風呂にも入らず、自室へと向かった。ゆっくりとドアノブを握って開くと、ひんやりと冷たい空気が流れ込んでくる。
 見れば、窓が少しだけ開けられて、扇風機が回っていた。私はふっと微笑み、ゆっくりと中に入って電気を点けた。辺りを見回しながら、その懐かしさに言葉を失くしてしまう。
 その部屋は私が家を出て行った時のままだった。ベッドには星座の模様が入った掛け布団が載せられ、大きな望遠鏡が窓際近くに置かれていた。
 勉強机の横の棚には宇宙に関わるありとあらゆる書籍がぎっしりと詰め込まれ、2003年と書かれた宇宙の情景を描いたカレンダーがまだ壁に掛かっていた。
 私は部屋の中央まで歩み寄り、ぐるぐると何回も体の向きを変えて、その部屋の景色を眺め、本当に心を揺らせた。なんだか嬉しくなってきて、そっとベッドに横になって、天井を見上げた。
 じっとしていると、ここから見えた星空を思い出して、ふっと笑ってしまう。私はまたやってみようか、と起き上がって電気を消した。そして、机の横に置かれていた家庭用プラネタリウムの電源を入れた。