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キリ番

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二〇一七年が明けて早くもひと月の半分が過ぎようという、日曜日の早朝。
 妻が朝食を用意してくれるまでの時間を利用して、憲太郎はいつものジョギングに出た。一月の六時半過ぎは日の出前だが、時計に従っている習慣は、季節に左右されることが無い。
 が、しかし、その日はいつもと違って、市街地方面には向かわなかった。代わりに、その反対の国道方面へと向かった。深い考えは無かったが、せっかく新年だから新しいことをしなければ……と思ったと言えば、そうなのかもしれなかった。
 薄暗く、人とも車ともほぼ出くわさない道……住宅よりは田畑が多い道を、冷たい強風を突いて、憲太郎が走る。もちろん知らぬ道ではないが、心身の寒さはひとしおである。
 と、その憲太郎の行く先に、彼が予想もしなかった光景が待っていた。椅子にじっと座って、車がやっとすれ違う幅の道を、じっと見ている人影が、そこにあった。
(交通量調査みたいに見えるが……今ここで?)
 憲太郎はそれと無くその反対側に寄って、走り続ける。そしてそれと無く視線をやって、毛糸の帽子をかぶり、マスクをしたその一体の人影を確認しつつ、その前を通り過ぎた。この時に、カチッという音ともに、確かに、声が発された。
「……『キリ番』ですよ」
 それは、中年女性と思しき声だった。
 憲太郎は走り続けながら少し振り返ったが、返すべき言葉が思い浮かばなかった。というより、少々気味が悪いので、あまり関わり合いになりたくなかった。憲太郎は申し訳程度の会釈をして、直ちに前を向き直った。
「キリ番ですよおっ!」
 今度は、もう怒鳴り声がした。憲太郎が振り返ると、更に続いた。
「記帳していけえっ!」
 女は立ち上がり、憲太郎を見据えていた。
 憲太郎の心身を、冷気とは別の寒気が走り抜けた。おかしな相手から絡まれてしまった。これは、意味が分からない……いや、全く分からない、というわけではない。三十歳になった憲太郎も、子供の頃には、インターネットのホームページで「キリ番をゲットして、ゲストブックに記帳」したことがある。が、しかし、そういう文化は衰えて久しい。それに、仮にそういう文化がこの二〇一七年まで盛んだったとしても、もちろん、交通量調査とは何の関係も無い。記帳の義務も、あるわけが無い。憲太郎には、この女に従う義務が、全く無い。
 憲太郎は止まること無く前を向き直って、なおも走り続けた。
「おいっ!」
 金切り声に振り返ると、女が憲太郎を追いかけてきていた。
 これは、いよいよ気味が悪いことになってきた……と思ったが、憲太郎は、一旦立ち止まった。しょせん、相手は女である。包丁でも出されれば話は違うかもしれないが、普通に考えれば、腕力で負ける危険性は無い。少し、話し合いを試みよう……というところだった。
 女は駆け寄りながら、なおもわめいた。
「キリ番だぞっ! 記帳しろっ!」
 憲太郎は立ち止まったのが正解だったのか戸惑いつつ、それでも努めて平静に言った。
「すみませんね。僕には事情が分かりかねるんですが、ご説明を……」
「キリ番は記帳だろうがっ!」
 女は、マスクを下げて叫んだ。薄暗がりの中で、えも言われぬ歪んだ顔が、憲太郎を見据えた。
 憲太郎の心身を、再び、寒気が走り抜けた。
「知るかよ!」
 憲太郎はそう言い捨てると、向きを変えて駆け出した。
 本当に、気味が悪かった。腕力で対処できる自信はあるにはあったが、前科が付きかねないもめごとは避けたいし、それより何より、この不気味な迫力のある女と、関わり合いになりたくなかった。鍛えてきた健脚でもってただ振り切ってしまおう、というのが、ここでの憲太郎の考えだった。
 が……憲太郎にとって意外なことに、女は非常にしぶとかった。
「記帳しろおっ!」
 憲太郎を足止めする車列も女を足止めする車列も無く、赤信号も無意味だった。憲太郎が神社の境内に入って石柵を乗り越えれば、女もそうした。憲太郎が小学校の鉄柵を乗り越えれば、女もそうした。
「キリ番は記帳だろうがっ!」
 ……新年だから新しいことをしよう、などと思ったのが間違いだった。憲太郎は悔やんだ。憲太郎はもはや、女の不気味な迫力とともに、不気味な体力をも認めていた。もしかすれば、取っ組み合いをしたとして、女に圧倒されかねない気すらし始めていた。
 市営バスにも出くわさず、出くわしたとしても金を持ってきておらず、タクシーにも出くわさず、憲太郎は走った。スマートフォンも持ってきておらず、どこに連絡することもできず、憲太郎は走り続けた。
 この女を撒(ま)くこと無く、大事な妻と子供たちが待つ我が家に向かうわけにもいかなかった。憲太郎は、幸い、一キロも行かないところに交番があるのを知っていた。そして行く先を、そこに決めた。

 既に、日の出を過ぎていた。交番では、息を切らして駆け込んできた憲太郎を、同世代と思しき男性警察官が、何かがあったと察し緊張した面持ちで対応してくれた。憲太郎はその警察官と一緒に戸口に立って、一緒に外を見回しながら、これまでにあったことを語った。
 その間、ふたりの目に女の姿が映ることは無かったが、警察官は興味深そうに話を聞いてくれた上で、憲太郎をパトカーで自宅まで送るか、あるいはお身内のかたに迎えに来てもらうか、どうしましょうか……というような提案をしてくれた。
 自宅は一キロほど東にあったが、パトカーで帰るのを、近所の人たちに見られたくは無い。「大の男が女に怯えて」などというのも、体裁が悪い。一方、妻に迎えに来てもらうほうは、まだあの女が近くにいて、妻やマイカーを目撃されてしまうのでは……という懸念がある。
 ぜひとも、警察があの奇怪な女に実際に会ってその実在を把握し、説得して奇怪な言動を誰に対してもせぬよう、穏当で適切な介入をして欲しい……こう憲太郎が話すと警察官は理解してくれ、交番から出ている同僚を呼び戻し、彼に頼んで交番の周囲を巡って調べるようにしてくれた。
 この間に、憲太郎は電話を借り、自宅の番号を押して、わけがあって帰宅が遅れる旨を伝えた。
 ……さて、憲太郎が交番に来て、既に四、五十分は経った。結局、例の女が見当たることは無かった。憲太郎が話した内容に対して警察官たちが懐疑的な感じでなかったのは本当にありがたかったが、ともあれ憲太郎はそこを辞去し、自ら歩いて帰ることに決めた。

 憲太郎は、とりあえず、自宅のある東へではなく、北へと向かって歩いた。強風は依然と冷たく、日もまだまだ低くて日陰があちこちを占めていた……と、一キロも行かなかったろうちだった。
「記帳しろおっ!」
 あの金切り声が、またも、背後から響いた。憲太郎が一瞥をくれると、そこにはやはり、あの歪んだ顔があった。
「ひいいっ!」
 憲太郎は駆け出した。これは、本当に執拗だ。本当に、どうかしている……憲太郎は走った。
作品名:キリ番 作家名:Dewdrop