紫陽花
[無国籍者]
『なに、肝を落としてるんだよ』
『身元確認資料、上がってきてただろうが』
項垂れる若手刑事の後頭部に、古手刑事の声が落ちる
咥えた煙草に、漸く火を点ける
細く、緩やかな線を画く紫煙が立ちのぼる
『なんすけど…、戸籍なしなんて冗談だと思いました』
『冗談て、お前なぁ』
今時の警察学校では、どう指導しているのか
抑(そもそも)、警察官の卵から「刑務所」とも呼ばれる警察学校を
本当に卒業したのか、と確認したくなる
今時の若者が頓痴気なのか
それとも、この若手刑事が頓痴気なのか、と問いたくなる
そんな若手刑事の落とした肩を抱え込み
書記係りの刑事が、その耳に密めく
『面白いよ、お前』
『今度、合コン行こう、合コン』
『マジっすか?!』
過去の新人類と、現在の新人類の会話を
古手刑事は取調室の湿気る壁に寄りかかり、聞くともなしに聞いていた
俺が言うのも何だが、お前等は早過ぎるだろうよ
非道に、事件に倦むにはいくら何でも早過ぎるだろうよ
慰めるにしても、今この場で合コンのお誘いはなしだろうよ
そんな部下達の行く末を憂いながら古手刑事は、男の背中を見据える
「無国籍者」
戸籍制度が実質的に機能している日本において
有り得る話しなのか、と疑問に思うかも知れないが有り得る話しなのだ
理由は様様だが
親の事情や信条、宗教観による場合もあるが
中には、制度を理解していない親もいる
しかも、男は言う
自分は連れて来られた、と
人身売買の大半は暴力団絡みである
性奴隷目的の売買もあれば、臓器売買、幼児売買もあるが
この男のように働き手として誘拐、そして売買される場合もあるのだろう
または親自ら、不要の我が子を売る事もある
現代日本に存在する現在進行形の、社会問題だ
それでも、男の名前は偽名かも知れないが
述べた住所は、山間に点在する小さな集落に存在している
小屋と畑の名義は、とある老夫婦のものだが二人の間に出生の事実はない
何れにせよ、出生の届け出がなければ命の記載はない
記載のない命の存在等、行方等知る術もない
咥えっぱなしの煙草から、灰が零れ落ちる
大して、吸う間もなく短くなった煙草の火を掌に乗せた灰皿でもみ消し
直ぐさま、次の煙草へと手を伸ばす
生憎、自分には禁煙等できそうにない
視界の端に入る、書記係りの刑事の涼しい顔が妬ましい