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探偵はバーにいる。かもしれない。

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 2本目のゴロワーズに火をつけようとしたとき、バーの扉がゆっくりと開いた。ネオン街の冷たい外気が流れこみオイルライターの炎が一瞬ゆらぐ。入ってきたのは黒いドレスに身をつつんだ髪の長い女だった。外は雨が降っているらしく、女はしずくの垂れる傘を壁に立てかけ、ストールを巻きつけた細い肩を指先で払った。
 せまい店内には中年のカップルが一組と、ジイさんがひとり。そのジイさんは、すみっこの席で酔いつぶれている。おれはわざと彼女から視線をそらし、カウンターにひじをついてけむりを吐いた。背中越しに、ブーツの靴音がコツコツと近づいてくるのが分かる。吐き出したけむりが、コルトレーンのサックスと混じり合い、天井の暗がりをただよった。
「ここ、いいかしら?」
 カウンターにハンドバッグを乗せて、女が訊ねた。おれは振り向くかわりに、小さく首をすくめてみせた。
「遠慮はいらないさ、きみのために用意した席だ」
 女はカウンターの酒棚に目をやりながら、そっとスツールに腰かけた。
「この店の雰囲気、むかしとちっとも変わらないのね」
「良いものは変わらないんだ。変わる必要がないからね」
「そう言うあなたも、むかしのままね」
 女が微笑んだ。シャネルの5番がふっと香った。
「探偵さん……って呼んでもいいのかしら?」
「お好きなように。もうむかしのように看板は掲げてないが、廃業したつもりはない。おれのライフワークなんでね」
「よかった。あなたしか頼めるひとがいなかったの」
 女はハンドバッグからなにかをつかみ出そうとしたが、その手を静かに押しとどめた。
「あいにくここは酒を飲むところなんでね、話は後からゆっくり聞かせてもらおう」
 パチンと指を鳴らす。グラスをみがいていた初老のバーテンダーが顔をあげた。
「彼女に、ドライマティーニをひとつ」
「ふふ、酔わせて口説こうとしたってダメよ。わたし、あなたに捨てられてからずいぶんお酒に強くなったんだから」
「捨てたなんてひと聞きの悪い。すべては運命のいたずらなのさ。神さまってやつは色恋沙汰がお嫌いでね、ときどき残酷ないたずらを仕掛けてくる」
 女の前にグラスが置かれる。おれはボトルのまま飲んでいたビールを持ち上げ、彼女のグラスにカチリとぶつけた。
「きみの、変わらぬ美しさに……」
 クスクスと女が笑いはじめた。
「なんだよ」
「ここはお酒を飲むところだなんて言っておいて、それノンアルコールのビールじゃないの」
「酒ってやつは勘をにぶらすからね。それに酔ってしまうと、きみを家まで送ってゆけなくなる」
「あら、わたしならタクシーで帰るからだいじょうぶよ」
「そうはいかないさ、依頼人の身の安全を守るのも探偵の仕事のうちでね」
「あなたに送ってもらうほうが、よっぽど危険じゃなくって?」
 またクスクスと笑う。むかしと変わらない薔薇が咲いたような素敵な笑顔だ。
 それからおれたちは、ふたたびグラスをぶつけ合った。
「ふたりの再会を祝して……」

 1時間ほどしてからバーを後にした。
 地下駐車場にとめてあるシトロエンに彼女と乗り込む。イグニッションにキーをさし込みながら、おれは言った。
「注意してくれ。こいつ助手席に美人を乗せると、とたんに機嫌が悪くなるんだ」
「あら、女性にやきもちを焼くなんて可愛らしい車だこと」
 あんのじょうキーをひねってもなかなかエンジンは掛からなかった。4度目のトライで、ようやくキャブレターが唸りをあげる。カストロール・モーター・オイルの焼ける香ばしいにおいが、あたりにたち込める。見た目はふつうの古いシトロエンだが、おれの愛用するこのGSビロトールは、水冷式ロータリーエンジンを搭載した本格仕様だ。まさに、羊の皮をかぶった狼というやつ。
 通りへ出て、アクセルを一気に踏み込んだ。雨に滲んで点々とつらなる街灯の明かりが、直線的な軌跡を残しながら後方へ消し飛んでゆく。
「ちょっとおれのマンションへ寄ってもいいかな。シャワーをあびて着がえをしたいんだが」
「うふふ、じゃあ久しぶりで一緒に浴びましょうか」
 女がいたずらっぽくウィンクした。
「まったく、きみってやつは」
 電動シャッターをひらき、シトロエンをマンションの地下へとすべり込ませる。自分の駐車スペースへ入れようとしたとき、不意に激しい衝撃がおれたちを襲った。女が悲鳴をあげ、割れたフロントガラスがあたりへ飛び散る。と同時に、バラバラとひとの駆け寄ってくる足音が聞こえた。
 おれは自分の迂闊さを呪った。ひたいからあごへ向かって生温かい血が流れる。だがそんなことには、かまってられなかった。女は無事か――。名まえを呼ぼうとしたが声が出てこなかった。そっと彼女の鼻さきへ指を近づける。だいじょうぶだ、息はしている……。
 黒い人影が、ぐるりと車を取り囲んだ。
 おれは、ついに観念した。
 むかしの女と会って気を抜いたのが運の尽きだ。頭が割れそうに痛かった。ちからなく背もたれに体重をあずける。意識はすでに遠のきはじめていた。
 こんな最期も、おれには相応しいのかもしれないな。思わず苦笑が漏れた。願わくば、この女が無事であらんことを……。
「また406号室のジジィだぜ、アクセルとブレーキ踏み間違えやがって、これで何度めだよっ」
「ダッシュボードに入れ歯飛ばしちゃって汚ねえな、いい加減にしてほしいね」
「それより助手席のバアさん早く助け出してやったほうがよくないか? 白目むいて泡吹いてるぞ……」