鬼の目にも涙
「一年ぶりに山から下りてきました、今年もよろしくお願いしますよ」
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いいたします、あなた方に来ていただかないと節分を迎えた気がしませんからね……おや? 今年は皮袋ではなくリュックサックですか」
「ははは、昨年頂いたご祝儀で買って帰ったのです、皮袋に比べて格段に便利な物ですな」
とある商店街の外れにあるこじんまりとした神社、今日は節分の日、豆まき行事が盛大に執り行われる。
普段はひっそりと落ち着いた神社だが、この日ばかりは近郊からも大勢の人が集まって来る、この神社の節分行事に現れる鬼は「リアルすぎる」と評判なのだ。
しかし、それもそのはず、何しろ赤鬼、青鬼のコンビは、着ぐるみや面をつけただけの人間ではなく、本物の鬼なのだから。
一年に一度だけ、節分の日に彼らは山から下りて来る、この日ばかりは人間界を大っぴらにのし歩いていても誰にも咎められることがないから……。
交番の警官もにっこり笑って敬礼してくれるほどだ。
鬼たちもにっこり笑って挨拶するのは言うまでもない。
この神社の起源は江戸時代に遡る。
初代の宮司は豪胆、かつ慈悲深い人物で、里に下りて来て暴れまわった末に、流行り病に冒されて苦しんでた赤鬼、青鬼を本殿にかくまって助けた。
鬼たちはその恩義に報いようと、毎年節分行事での敵役を買って出て、それが現代に至るまで脈々と続いているのだ。
「今年も虎のパンツを用意しておきましたよ」
「ありがたい、そろそろ擦り切れていたんでね」
「ただ、今年もフェイクファーなんですよ、もう本物の虎の皮は手に入らないもので」
「かまいませんよ、いや、むしろその方がいい」
「無用な殺生は我々も好まないのでね」
「本当にお二人は心優しい」
「いやいや、あなたのご先祖に命を救われた時に、すっかり心を入れ替えたのですよ」
「では早速奥でお着替え下さい」
「着替えと言ってもパンツをはきかえるだけですがな」
「隣の部屋に、ささやかですが酒肴の用意もしてありますよ」
「それはありがたい、では、行事に差し障りのない程度にご馳走になります」
「我々も山で芋焼酎を作って飲んでおりますが、人間界の酒は味といい香りといい格別ですからな……」
「ウォー!」
「ガォー!」
本物の鬼の唸り声は迫力満点、しかし、どこかおどけた響きがあるのを子供達は聞き逃さず、嬉々として豆を投げつける。
「おお、これは堪らぬ」
「退散じゃ、退散じゃ」
おどけた様子で逃げ回る赤鬼、青鬼。
本物であるだけに、その様子は却って可笑し味がある。
子供達は歓声を上げながら鬼達を追って豆を投げつけ、鬼達も楽しそうに逃げ回る。
ほのかに梅の花が香る境内は暖かな笑い声に包まれていた。
そんな楽しい雰囲気の中……。
「赤よ……」
「うむ、俺も気づいているぞ、青よ」
「参道だ……」
「ああ、わかっている」
青鬼の地獄耳が聴き付けた異変は、赤鬼の耳にも届くほどに近づいている。
鬼たちはおどけて逃げ回るのを止め、鳥居の前に進んで立ちはだかった。
「赤よ、見えるか?」
「ああ、見える……あやつ、狂っているな、真っ直ぐ突っ込んで来るつもりだ」
この鳥居に真っ直ぐに伸びた参道の先に猛スピードで進入して来た一台の車。
赤鬼の千里眼には、ドライバーの狂気の表情まで見て取れる。
そして、ドライバーは更にアクセルを踏み込み、境内に集った人々をなぎ倒そうと加速する。
青鬼はくるりと振り返ると。
「下がっていろ!」
と叫んだ。
その声は雷のよう、そしてその表情は正に鬼の形相。
子供達はあっという間に鬼達の側を離れ、遠巻きにした。
「来るぞ!」
「おう!」
赤鬼、青鬼は金棒を大上段に振りかぶり、青鬼は低く水平に構える。
「ええいっ!」
「やあぁっ!」
二本の金棒が縦横に一閃した。
ガッシャーン!!!!!!
赤鬼が振り下ろした金棒は暴走車のボンネットをぺしゃんこにして地面にめり込ませ、青鬼が振った金棒はボディからシャーシを弾き飛ばした。
「この大馬鹿者が! 一体全体何をする!」
運転席からドライバーをつまみ出した赤鬼が、雷鳴の如き大音声で怒鳴りつける。
「うう……は、離せ、この世の中は狂っている、俺は罪深い人間を一人でも多く道連れにして死ぬんだ」
「ふざけたことをぬかすな! お前など地獄の業火に独りで焼かれるが良い!」
赤鬼はドライバーの胸倉を掴んで高く差し上げたまま、金棒を振りかぶった……が、その腕を青鬼が制した。
「赤よ、止めておけ……あれを見ろ……」
青鬼の視線を辿った赤鬼、その怒りの炎はたちまち消え失せる……そこには遠巻きにした子供達の、一様に怯えきった表情が並んでいた。
「二度とこんなことはするな……」
赤鬼はドライバーに静かに言うと、駆けつけたパトカーから降りて来た警官に向けて軽々と抛り投げ、くるりと向き直ってうな垂れた……青鬼も並んでうな垂れている。
正体を知られてしまったからには、もう人里に下りてくることは叶わないだろう。
二百年の長きに渡って続けてきた節分の敵役もこれで最後、もう、あの子供達の歓声に触れる事も出来なくなる……。
その時、遠巻きの輪の中から、一人の小さな女の子が進み出た。
「本当の鬼さんだったの?」
「ああ、そうだよ……隠していてゴメンな、だけど本当の鬼だとわかったら、みんな怖がってしまうだろう?」
「ううん」
女の子は大きくかぶりを振った。
「だって、鬼さんたちは、あたし達を助けてくれたのよね? 鬼さんたちが止めてくれなかったら、みんなあの自動車に轢かれて死んじゃったり大怪我しちゃったりしてたのよね?」
「ああ、そうだね……夢中で止めてしまったよ」
「だったら、鬼さんたちはきっと良い鬼さんたちだわ、優しい鬼さんたちよね? あたし、鬼さんたちが大好き」
女の子は赤鬼の左足と、青鬼の右足に同時に抱きついた。
「おぅ……」
「おぉ……」
鬼達がしゃがみこんで、太い腕で女の子を包み込むと、遠巻きにしていた輪があっという間に縮み、子供達に一斉に抱きつかれた鬼たちは力なく尻餅をついた。
「赤よ……」
「青よ……」
子供達にもみくしゃにされる鬼達の大きな目からは、大粒の涙が次々と零れ落ちた……。
『本物の鬼が現れた』と言う噂はぱっと広まったが、宮司がそれを否定する会見を開き、地元警察も『根も葉もない噂に過ぎない』と公式コメントを出した事で、鬼達の正体が白日の下に晒される事は避けられた。
そして、その神社の節分行事は今でも続いている。
「赤よ……」
「青よ……」
「もうすぐだな」
「ああ、もうすぐだ、待ち遠しいな」
「ああ、このパンツもだいぶ擦り切れてきたしな」
「ははは、違いない」
「しかし、もっと楽しみなのは……」
「ああ、また子供達に会えるな」
山の奥深く、洞穴の中。
赤鬼、青鬼は今年も節分の日が来るのを指折り数えて待っている。