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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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「ジスラが同じことを言ってたな。冥界の王なら、〈黄昏の回廊〉の封印をなんらかの手段で回避できるのかもしれないって」
「〈黄昏の回廊〉を完全に通過することはできないでしょう。でも、巨神の一部だけなら、なんとか回廊をくぐり抜けることができます。わたしの左眼に降りてきた灰色の女神のように」
「神降ろし、か。巨神の信徒がよくやっている儀式だな。でも、うまくいったためしはほとんどないらしいぜ。少なくとも、おれは成功例を聞いたことがない」
「ええ。それだけ地上に通じている〈黄昏の回廊〉は封印が強固ですから。ですが、冥界だったら、かの神の力である程度は封印を弱めることができます。そして、冥界とこの地上は〈死者の門〉でつながっています。これはわたしの想像ですけど……」
 抜け道がとうとつに尻すぼみになって終わっていた。ボートがそれ以上進まなくなる。
 レギウスは周囲を見回した。
 海面が凍りついていた。波のかたちがそのまま奇妙なオブジェとなって幾重にも重なっている。試しにボートの縁から手を伸ばして水面をつつくと、石のような硬い感触が返ってきた。魚の泳ぐ影が海中で凝固している。海中を照らす陽射しの角度がいまと違うことに気づく。光でさえ動きを止めていた。
 二百年前からこのあたりの時間は止まったままなのだ。
「……ここから先は歩くしかありませんね」
「海の上をか?」
「大丈夫。落ちたりしませんから」
 ボートから降りて、凍結した海面に立つ。なんとも違和感が強い。以前、川を渡るために水面を凍結させて歩いたことがあったが、あのときは仮設の橋を渡るような心持ちだった。これとはだいぶ感覚的に違う。
「行きましょう、レギウス」
「ああ」
 リンが〈破鏡の道〉のときと同じ、小さな結界を自分たちの周囲に張りめぐらせた。歩いて、海面を渡る。踏み抜く心配はないとわかっていても、どうにも本能的な不安は残る。
 島に近づいた。上陸できそうな場所を探したが、なかなか見つからなかった。海面からそびえる垂直の壁は、あたかも巨人が力まかせに斧でたたき切ったようにも見えた。
「これはわたしの想像ですけど……」
 歩きながら、リンがさきほどの会話の続きを口にする。
「神を宿す瞳の持ち主は、〈死者の門〉を通って地上に逆流してきた巨神に憑依されたのだと思います。神降ろしの儀式の最中にたまさか取りつかれたのでしょう。巨神の信徒はどこにでもいますから……」
「おれたちはターロンだけじゃなく、巨神が憑依した人間とも戦わなければならないのか?」
 リンは首を縦に振って首肯(しゅこう)し、
「レギウス、憶えてますか? ガイルから仕事を依頼されたとき、彼が言ってましたよね?」
「え?」
「ターロンには協力者がいます。いっしょに〈僧城〉から脱走した尼僧です」
「……その女が巨神を宿してる、と?」
「たぶん、彼女の魂は巨神に喰われて残っていないと思います。彼女はすでに死んでいるのも同然です」
「…………」
 島の周りを海岸線に沿ってたどり、ようやく上陸できそうな、崖の一部が崩れてできた岩だらけの浜辺を見つけた。そこから崖のてっぺんに向かって、明らかにひとの手でつけられたとわかる幅の狭い足場が岩肌に刻まれている。
 打ち寄せることをやめた波を踏みしだいて、島に上陸する。
 島全体に結界が張られたせいで鳥も寄りつかなくなったのだろう、生き物の姿はまるで見かけなかった。海風にあおられ、身をよじったまま凝固した奇形の野草は、さながら悪夢の情景を描きだした一幅(いっぷく)の絵画のようだった。
 ふたりは崖につけられた足場を急いで登った。ほどなくして崖の上に登りつめる。
 時間を凍結する結界はそこで効力を失った。崖の上にはきちんとした時間の流れがある。よどんだ風が緩やかな傾斜地をゆるゆると流れていた。
「日食まであと一時間ちょっとだ」
「ええ。急ぎましょう」
 レギウスは四囲に視線を配る。古くなった紙のような風合いの地面には、丈の低い草がまばらに生えていた。草地のなかに真っ白なものがたくさん転がっている。それがなんなのかを見分けて、レギウスは鼻白む。
 それは人骨だった。ボロボロになった衣服や鎧の断片が、野ざらしになった人骨にまといついている。錆びて真っ赤になった剣や槍も多数落ちていた。
 リンは眉をひそめて、
「たぶん、この島に逃げこんだ巨神の信徒のなれの果てです。埋葬されずにそのまま放置されたんでしょう」
「……すごい数だな」
「この島の結界を張るのに使われた時晶は、巨神の信徒の死体から抜き取ったそうです」
「三千人分の時晶か。そんだけあれば、これだけ大掛かりな術式も組めそうだな」
 ふと足元に目を落とすと、ごく最近につけられたとおぼしき足跡があった。足跡は複数──ふたりだけじゃない。この島に上陸したのはターロンと彼の協力者以外にもいる。
 リンが島の北側──中央部に向かって盛りあがった傾斜地に顔を向ける。目を細め、鼻に皺を寄せた。
「……血のにおいがします」
「なんだって?」
 空気をかいだが、血のにおいまではわからない。だが、リンの五感は人間のそれよりも数倍、鋭敏だ。
「どっちだ?」
「あの建物があるあたりです」
 リンが指さす方向にそれらしき鋭角的なシルエットが、結界の壁に覆われた灰色の空を背景に黒々と浮きあがっている。
「たくさんの人間の血のにおいです。ひとりやふたりじゃありません」
「行ってみよう」
 なにが起きても対応できるよう警戒を強めつつ、人骨が散らばる貧弱な草地を速足で横切っていく。やがて、斜面の陰になって見えなかったものが視野に入ってきた。
 レギウスは思わずうなり声を洩らす。
 かつては流刑者が住んでいたのだろう、粗末な造作のあばら屋が数軒、狭い空き地の周りに建っていた。
 その空き地に点々と転がっている黒いもの──それは人間の死体だった。
 白骨体じゃない。地面の血だまりがまだ乾いていない、殺されたばかりの死体だ。
 死体はどれもレギウスと同じような全身黒ずくめの装束だった。鼻と口を覆う頭巾が顔の大半を隠している。手には針のように細くとがった剣がにぎられたままだった。
 死体の数は……ざっと数えてみると三十人ほど。鋭利な刃物で胴体を断たれた者、肉が炭化して異臭を放っている者、首や手足があらぬ方向を向いている者──なかには目をそむけたくなるようなむごたらしい死体もある。調べてみたが、息のある者はいなかった。
「〈統合教会〉の暗殺僧だ……」
 レギウスは黒ずくめのこの集団を知っていた。〈光の軍団〉にいたとき、彼らと戦った経験があるのだ。
 彼らは〈統合教会〉の暗殺僧──教会がその存在を決して認めようとしない、裏の実戦部隊である。
 ひとりひとりの戦闘能力はきわめて高く、隊員のなかには錬時術を使いこなす者もいる。敵に回したらかなり厄介な相手だ。その精鋭部隊が三十人以上も物言わぬ骸(むくろ)となって大地に転がっている。尋常ではない。
 レギウスは異端審問庁が送りこんできた錬時術師のセリフを思いだした。この島には別の部隊が対処に向かっている、と彼らはうそぶいていた。それが暗殺僧の集団だったのだ。