銀の錬時術師と黒い狼_魔の島
リンがスッと一歩前へ歩みでる。レギウスの右に並び、唖然として言葉を失っている三人の異端審問官の面前に立った。
「道理をわきまえない愚か者ども……わたしの前から消え去りなさい」
リンがつぶやく。声はリンのものでも、そのセリフは彼女のものではない。
レギウスは夜空を仰いだ。月があざ笑っている。
(月の女王か!)
リンの両手の指が高速で動く。人間には見分けることもできない緻密(ちみつ)な金色の文字が、闇のなかに小さな満月となって凝集していく。
力の文字。
それ自体が創造と破滅の源泉たりえる、神々の文字。
リーダー格の異端審問官が低いうめき声を洩らした。
「バカな……第一種術式文字だと? 吸血鬼だってこんなマネはできないはず……」
「結式──」
リンが小さな声で唱える。表情の蒸発したその美貌が、銀色の月光を穏やかに吸いこんだ。
「われに従いし兵(つわもの)どもよ、おどれ」
金色の文字が真昼の太陽のような強い光を帯びて急速に膨張する。
まぶしい。目を開けていられない。レギウスは固く目をつぶり、腕で顔をかばう。
船が、海が、星空が、世界が、金色の貪婪(どんらん)な光に呑みこまれた。
悲鳴。誰かが倒れこむ音。甲板がミシミシときしんだ。
レギウスの体内で血が騒いだ。肌を無数の虫が伝っていくような、むずがゆい蟻走感(ぎそうかん)。骨と筋肉が小刻みに震えている。まぶたの裏で毒々しい色の火花が弾けた。
出現したときと同じく、光の爆発はまたたく間に収まった。
レギウスの肉体を揺さぶる波動も力を失っていく。数を十、数えてから、おそるおそる目を開ける。
三人の異端審問官は消えていた。
右に顔を向ける。
うっすらと微笑むリンがいた。
レギウスの目線に気づいて、リンが顔を向ける。
笑みが広がった。違う。リンの笑顔じゃない。
リンの身体を乗っ取り、操っている存在の、尊大で傲慢な冷笑。
「月の女王……あんた、なにをしたんだ?」
「あなたたちの手助けをしただけです」
リンの声帯を使って、女神がこともなげに答える。
「あの者たちの存在を過去にさかのぼって抹消しました。彼らは生まれてもいないし、生きてもいません」
「殺したのか!」
「違います。最初から存在していないのだから、死ぬこともありません」
「都合のいい解釈だな。あんたら五柱の神々はいつもそうだ。自分たちのやりかたを押しつけて、あんたらの無力な信徒を翻弄する」
「人間はわたしたちの被造物です。わたしたちの意志に従うのは当然です」
レギウスは歯をむくことで女神に同意できないことを伝えた。
リンは微笑みを絶やさない。呆然自失の態(てい)で突っ立っている船乗りたちに向かい、鋭い命令口調で、
「船を回頭しなさい。〈嵐の島〉へ向かうのです」
船乗りたちは返事もせず、きびすを返して自分の持ち場へと戻っていく。うつろな目をしたダガス船長が号令をがなる。船乗りたちは黙々と働く。誰も騒いだりしない。
リンは満足げにうなずいた。憤懣(ふんまん)やるかたない顔つきのレギウスに向きなおり、彼の身体にしなだれかかる。レギウスの胸板をまさぐり、首筋に優しくキスをする。リンを突き放そうとしたが、身体が思うように動かない。女神の放つ月の魔力に囚われている。
「……ゲームに直接、介入するなんて、立派なルール違反じゃねえのか?」
語気を強めてそう尋ねると、リンの身体を借りた女神は唇の端をキュッとつりあげた。
「異端審問庁を動かしたのがわたしの義理の兄でも、ですか?」
「冥界の王が? 五神教徒がヤツの託宣を受け入れるわけがねえ」
「異端審問庁にも内通者がいるのです。この世界の覇権をにぎるためならば、義理の兄や巨神のご老体たちと手を組んでもいい、と考える人間がね」
「…………」
レギウスは二の句が継げない。それは充分にありうることだった。六神教徒を邪神の信奉者とみなし、粛清と称して一方的な虐殺を繰り返してきた〈光の軍団〉のなかにも隠れた巨神の信者がいたのだ。
人間の欲望は信仰心をも凌駕する。実利のない信仰心はもろく、折れやすい。その実例を、レギウスは何度も目撃してきた。
「いまから〈嵐の島〉へ向かえば明後日の日食までには間に合うでしょう。日食は黄の刻(午後四時)ごろから始まります。勝ちなさい、レギウス。〈黄昏(たそがれ)の回廊〉の封印を守るのです」
「ああ、あんたのために働いてやるよ、おれの女神さま」
「フフフ……わたしの忠実なしもべであるあなたには、ご褒美をあげましょう」
リンの手がレギウスの股間に伸びる。レギウスは鼻に皺を寄せてうなる。腰を引こうとしたが、リンがレギウスの尻を押さえつけた。
レギウスの腰着を脱がそうとして、リンの指の動きが急に止まる。
リンが顔をしかめる。耳を澄ましているような面持ち。
「……どうやら彼女はこんなこと、望んでいないようですね。泣いています」
レギウスはリンをにらんだ。月の光をためこんだ翠眼(すいがん)の奥でかすかな感情のきらめきが揺れている。目頭に透明な粒が盛りあがり、スッと筋を引いて頬を転がり落ちていった。
リンがレギウスから離れる。ゆっくりと首を横に振った。悲しげに、切なげに、それでいてどこか楽しげに。
「わかりました。あとはあなたたちにお任せします……」
不意にリンの身体から力が抜ける。くずおれる彼女を、レギウスはとっさに腕を伸ばして支えた。
リンは気を失っていた。
レギウスは悪態をわめき散らす。神をののしる罰当たりなその悪態は、船体に打ちつける荒々しい波の音に打ち消された。
リンの左眼。
夏の空を切り取ったかのような色のその瞳は、神を宿すという。
それは文字どおりの意味だ。神々はリンの左眼を依代(よりしろ)として、この地上に顕現する。
〈双頭の帝国〉に君臨する〈青き血を継ぐ者〉の一族は、支配者であるのと同時に、五柱の神々に仕える最高位の僧侶や巫女だった。
レギウスは〈青き血を継ぐ者〉の一族のことをなにも知らない。彼らがひとつの大陸にまたがる巨大な帝国を東西に分割し、東西の両系統が代わる代わる帝位に就く、その理由も知らなかった。
だが、これだけは知っている。リンは普通の錬時術師ではない、と。彼女が人間ではなく、格段に生命力の強い吸血鬼だからというだけではない。〈青き血を継ぐ者〉の血脈には神々の血が混ざっている──「青き血」とはそういう意味なのだ、とレギウスは最近になって曖昧(あいまい)ながらも理解するようになった。
リンは第一種術式文字を使うことができる。秘めた力の大きさゆえに、神々だけが扱うことのできるとされる、力の文字だ。
このことを知る人間は──リンの護衛士であるレギウスを除いて──誰もいない。秘密を知った人間は確実に葬り去られる。
あの三人の異端審問官のように。
リンをおんぶして、自分たちの船室に戻る。
寝台にリンを横たえた。寝息は穏やかだ。顔色も悪くない。
レギウスは大きな吐息をつく。疲れているのに眠気はなかった。神経が興奮でささくれだっている。向かいの寝台に腰を落とし、グルグルと肩を回す。
作品名:銀の錬時術師と黒い狼_魔の島 作家名:那由他