銀の錬時術師と黒い狼_魔の島
「……ぼくがイヤだと言っても、無理やり地下書庫へ行くつもりなんですね? どうやら場所もわかってるようですし」
リンは曖昧(あいまい)な微笑をちらつかせただけだった。オウズは天井を仰ぎ、さきほどよりも深いため息をつく。
「わかりました。地下書庫へご案内しましょう。ついてきてください」
オウズは書庫の扉を押し開け、書棚と書棚のあいだの狭い谷間を足早に横切っていく。そのあとをふたりはあわてて追いかけた。
地下書庫は地下三層の最深部にあった。
ねばつく闇の底へと続く果てしない螺旋階段を、三人は一列縦隊になって降りていく。
壁には音を吸収する性質を持つ発泡樹の青黒い板が隙間なく張られていた。石段をこする足音さえも響かず、耳が痛くなるような静寂が周囲の空間を凍りつかせている。
蛍光樹のぼんやりとした灯りを手にしたオウズが、〈死者の書〉について知っていることを訥々(とつとつ)と語る。
〈死者の書〉は、二十巻から成る書物の総称である。この〈第二図書館〉の蔵書目録には記載のない、秘本中の秘本だ。著者は不明。錬時術にも用いられている第二種術式文字が使われていることから、統合者戦争よりもずっと前の時代──おそらく八千年前の創世主戦争の時代に書かれたものだと推定されている。前時代の遺物としては最古の部類に属するものだった。書かれている内容は錬時術の術解書である、ということぐらいしかわかっていない。
「さっきも言いましたが、あの本は存在自体が錬時術なんです。本を読んでも内容を記憶することはできないようになっているんですよ」
「どうしてだ?」
レギウスの問いかけにオウズは露骨にイヤそうな顔をして、
「読者の記憶が錬時術で凍結されてしまうんです。頭のなかだけ時間の流れが止まってしまうんですよ。だから読んだ気になってもさっぱり内容が頭に入ってこない。最初から読んでいないことになりますからね。写本もできません。書き写したとしても意味不明な文章になるからです」
「そいつは厄介だな。すると、蔵書目録にないというのは……」
「目録をつくらなかった、というよりも、つくれなかったからです。なにせ、読んだ端から忘れちゃいますからね。本の題名さえ憶えられないんです」
「〈死者の書〉を書いたのは巨神のひとりだ、と館長は言っていました」
リンの発言にオウズがサッと振り向く。驚きに目を丸くしている。
「なんですって? 神があの本の著者だというんですか?」
「真偽ははっきりしませんが、そういう説もある、ということです」
「ふうむ。まあ、確かに、あの本が持つ術力の強さを考えると、その説もあながちまちがいだとは言えませんね」
「ちょっと質問してもいいか?」
「なんでしょうか、紫色に腫れた目の上のものもらいくん?」
「……早死にしたくなかったら、おれのことをちゃんと名前で呼ぶんだな」
「きみの名前? いちいち憶えていませんよ、そんなもの」
「彼の名前はレギウスです。わたしの護衛士なんですから、きちんと憶えてくださいね」
「わかりました。一生、忘れません」
(……絶対に殺してやるからな)
「本が読めないのに、どうしてそれが危険なものだとわかったんだ?」
「さあ。昔からそう言われてるだけですから。ぼくも知りません」
「おい」
「ぼくが館長に聞いた話では、あの本は普通の人間が読むと内容を忘れてしまいますが、ある錬時術を使うことによって正確に読み取ることができるそうですよ。本当かどうかは知りませんけどね」
「つまり、錬時術師だったら、書かれてる内容を忘れたりしないと? ……リン、おまえは五年前に本を見せてもらったんだよな?」
「ええ、そうです」
「本の内容を憶えてるか?」
「あのときは表紙を見せてもらっただけです。読んだことはありません。それに、正しく読み取る錬時術もなしに読んだところで、理解できるとも思えません」
「おまえは知らねえのか、その、本を読み取るための錬時術とやらを?」
「知りません。そんな錬時術が実在するのかどうかも怪しいと思っています」
「もしかしたら……ターロンはどこかでその錬時術を見つけたのかもしれねえな」
「まだ犯人がターロンさんだと決まったわけじゃないですよ?」
「リンさん、誰ですか、そのターロンというのは?」
「こっちのハナシだ。あんたには関係ねえよ」
オウズがムッとする。肩越しに振り返ってなにか言いかけたが、リンの穏やかな微笑とぶつかって口をつぐんだ。黙々と階段をくだっていく。
レギウスはひとり思索にふけった。ややあって、オウズの声が彼の意識を現実に引き戻した。
「……地下書庫に着きましたよ」
地下に降りる螺旋階段は、オウズが立っている場所で終わっていた。蛍光樹の青白い光の輪のなかに、岩盤を掘削しただけの粗雑なトンネルが前方に伸びている。
トンネルの壁には茶色く変色した獣骨──かたちからすると、おそらくはヤマクジラの骨──を組んだ書棚が据えられていた。
書棚のほとんどはなにも置かれていなかったが、うっすらとほこりをかぶった、いかにも古そうな本や巻物が固まっている箇所もちらほらと見受けられた。保管している、というよりは放置している、と表現したほうが正確かもしれない。トンネルの内部の空気は乾燥していて、鼻の奥がツンとする刺激臭がかすかに漂っていた。
「〈死者の書〉はこの奥です」
そう言って、オウズはきびきびと歩きだす。ふたりは無言でその後ろをついていった。
作品名:銀の錬時術師と黒い狼_魔の島 作家名:那由他