紅装のドリームスイーパー
翔馬が病院にいたときに、すでに現実世界が改変されていたとしたら?
となると、タイムリミットの四十八時間は過ぎている──それは充分にありえた。
「……現実世界が改変されたのは、土曜日の昼間だったということ?」
「そうよ」
あたしのつぶやきを肯定したのは葵でもルウでもなく──花鈴だった。
いつの間にか、花鈴は目を覚ましていた。唇を色がなくなるまできつくかみしめ、のっぺりとした灰色の空に視線を遊ばせている。
あたしはなにか言おうとして言葉が思い浮かばず、金魚みたいに口をパクパクさせる。
葵があたしの代わりに尋ねてくれた。
「ルウの言うとおり、タイムリミットの四十八時間は過ぎているんですね?」
「ギリギリだったけどね。あなたたちがわたしの翔馬と戦ってるときにタイムリミットが過ぎたから。間に合わないかも、と思ってたけど、翔馬が時間稼ぎをしてくれたわ」
そうか、あのときだ。花鈴は、「もうすぐ悩まなくてもよくなるから、安心していいのよ」と言っていた。あれは間もなくタイムリミットがくる、と暗にほのめかしていたんだ。
「新城君、まんまと引っかかったね。とっさの思いつきだったけれど、あのお芝居、浩平さんのところにわたしがいると新城君に思いこませるのが目的だったのよ。新城君がいずれドリームスイーパーになって、夢魔と戦うことになるのは目に見えていたから、先手を打っておいたの」
「だけど……翔馬が夢見人(ゆめみびと)だと、浩平が知ってたはずはないよ。それに、翔馬のケータイに電話してきたのは浩平のほうなんだよ? 着信履歴が残ってたんだから」
「新城君が浩平さんに電話をかけてきたときには、わたしはもう現実世界にいなかったのよ。新城君、あのとき電話で、午前中は失礼しましたって謝ったでしょ? あれで新城君が夢見人だってわかったわ。普通なら記憶が書きかえられて、お墓に行ったことを憶えてるはずがないからね」
いま、わかった。翔馬がしゃべったあとで、浩平がしばらくのあいだ黙りこんでいたのは、翔馬が夢見人だと判明して、どうするかを思案していたからなんだ。あたしの現実世界での姿が翔馬だと看破したのも、そこから推測したのに違いない。
「新城君のケータイに何度も電話したのは、新城君が夢見人かどうか、確かめたかったから。新城君、わたしが見てた悪夢のことが気になるみたいだったからね。もしかしたらって思ってた。案の定、ビンゴだったよ」
「花鈴……あたしは……」
「いいの。新城君が責任を感じることはないわ。これはわたしが望んでたことなんだから。菜月が生きていて、みんなといっしょにいる……そんなこと、現実になるとは思ってもいなかったよ。ホント、奇跡だよね。だから、わたしはもうどうなってもいいの」
「そんなことはありません!」
力強い、きっぱりとした口調で葵が否定する。あたしと花鈴は同時に葵を見やる。葵は眉を逆立て、いらだちのこもった眼差しで花鈴をにらんでいた。
「どうなってもいいだなんて……そんなの、あなたが本気で望んでるはずがありません!」
「わたしの気持ちなんて、赤の他人のあなたにわかるはずないじゃない!」
「いいえ、そんなことはありませんよ。これでもあなたの気持ちはわかってるつもりです」
「そう。じゃあ、教えて。わたしの気持ちのなにがわかってるというの?」
「どうなってもいいと思ってるのなら、どうしてあなたを守る最後の守護者を新城君にしたんですか? 本当は新城君に助けてもらいたい、守ってもらいたいと思ってるからじゃないんですか?」
花鈴の顔色が変わった。最初は憤激で頬が赤らみ、それから徐々に血の気が引いて青ざめていく。肩がわななき、呼吸が浅くなった。
「わたしは……」
「苦しかったんでしょ、薬袋さん。周囲のひとに助けてもらいたいと思ってるのに、なかなか言いだせなかった。臆病者です、あなたは。かわいそうな臆病者です」
花鈴は答えない。グラウンドに横たわったまま、唇をきつく引き結んで、こみあげてくる激情を抑えている。それが飽和すると──ひと粒の涙に結実して、花鈴の頬をゆっくりとすべり落ちていった。声を殺して、泣く。まるで冷えきった感情が結露したかのように、透明な涙の粒が色を失った頬を濡らしていく。
「わたし……新城君しか頼るひとがいなかったの。糸川君はわたしを憎んでるし……両親も友達も気休めの言葉しか言ってくれなくて……でも、新城君にもそっぽを向かれたらどうしようって思ったら、こわくて言いだせなかった。あのときみたいに新城君がわたしを置いて逃げたりするかもしれないって……そんなの、きっと耐えられないよ」
あたしは麻痺した感覚で、花鈴の吐露の言葉を受け止めていた。
複雑な感情が胸のうちで渦を巻いている。あたしのなかの翔馬の部分。それが、震えている、身悶えている。後悔、自己嫌悪、忸怩(じくじ)たる気持ち。それらがないまぜになって、あたしのなかでズキズキと古傷のようにうずいている。
そんなことはないよ、と言ってやればいいのに。花鈴を安心させてあげればいいのに。
そうは思っても、あたしの口が動かない。なにを口にしても、空疎で中身のないただの修辞(レトリック)に堕(だ)してしまいそうで、言葉はたちまち蒸発していく。
臆病者となじられるべきは、翔馬──あたしと一心同体の、彼のほうだった。
あたしは黙りこむ。ルウがチラリとあたしの顔をうかがい、苦々しげな口調で口を開く。
「残念ながら、きみを助ける手立てはない。きみは半年ぐらいのあいだ、夢の世界の住人でいられるだろう。そのあとは……」
「消えるのね、わたし」
花鈴は吐息をつき、肘をついて上半身を起こした。無人の校舎へ目をやり、顔にかかった亜麻色の髪をうとましげに手で払う。
「もういいの。わかってたことだから……」
「いいえ、そうと決まったわけじゃありません。まだ方法はあります」
断固とした声で宣言する葵に、あたしたちの視線が集中する。葵はふっくらと微笑んだ。
「薬袋さんを助ける方法があるんです。もちろん、早見さんも助けます」
「葵、きみはなにを根拠に……」
ルウが鋭く息を呑む。金色の妖瞳がカッと大きく見開かれた。
「まさか、きみは……」
「気づいてくれたようですね、ルウ。あなたなら、それができるはずです」
「バカな! そんなこと、私が絶対に許さない!」
「でも、これしか方法は残されていません」
「私はやらないぞ!」
「……葵、いったいなんのこと?」
あたしの問いかけに、葵は笑みを消す。もう一度目をつぶり、ゆっくりと深呼吸をひとつ。目を開いたとき、漆黒の双眸の底には穏やかな光が揺らいでいた。
「現実世界での薬袋さんが早見さんに入れかわったのなら、それを再度、繰り返せばいいんです。つまり、誰かが薬袋さんと入れかわれば、薬袋さんは助かります」
「誰かって……」
不意にあたしは葵の発言の帰着点を悟った。葵をマジマジと見つめる。葵はあたしの視線を正面から受け止めた。受け止めて、いつものようにおっとりと微笑む。
「……なにを言ってるの、葵? あなたが身代わりになるってこと?」
葵はコクリとうなずく。
花鈴が目を見張る。ルウは喉の奥から不服げなうなり声を洩らした。
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他