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紅装のドリームスイーパー

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Real Level.13 ──学校


 夢を見たかもしれない。
 泡沫(うたかた)の夢。花鈴が出てきたような気がするが、よく憶えていない。
 漆黒の太陽。それが、頭上に居座っている。不意に太陽が墜ちてきた。おれは叫んでいた。
 叫んで、叫んで、喉が破れて──目が覚めた。
 目覚ましがわめいている。
 おれの部屋。現実世界という名の、硬直した夢。
 ベッドに上半身を起こす。肩を回して凝った筋肉をほぐす。身体のふしぶしにこびりついていた、痛みともしびれともつかない感覚が蒸発していく。
 目覚ましがわめいている。
 ベッドから抜けだし、目覚ましを止める。目覚ましは満足の吐息を洩らして黙りこんだ。
 夢。夢魔との戦い。決着はつかなかった。花鈴を救えなかった。
 チクショウ、チクショウ、チクショウ!
 悪夢はまだ終わらない。

 終わらせてやる。必ず。

 いつもの朝の通過儀礼が始まる。まず、トイレで生理的欲求を満たす。それから一階のリビングへ。
 家族が集まっている。駿平は朝の定番メニューのあらかたをたいらげ、最後の仕上げにコップの牛乳をゴクゴクと飲んでいる。
「おはよう、兄さん」
「ああ、おはよう」
「昨日の試合、すごかったよね」
 朝から野球の話題か。ホント、駿平の頭のなかには野球のことしかない。適当に聞き流していると、「悪夢」という単語が耳に飛びこんできた。ハッとして、かじりついていたトーストからおもてをあげる。
「……でさ、こわい夢を見たんだよね。足をケガして野球ができなくなっちゃう夢。ゾンビみたいな連中に追いかけられてさ。ボコボコに殴られるの。悪夢だったよ」
 駿平が牛乳を飲み干す。おれと目が合った。駿平が不審げに眉をひそめる。
「なに、兄さん? ヘンな顔してさ」
「いや……なんでもない」
 おれはあわててトーストをパクつく。駿平が悪夢を見たのは偶然なんだろうか。それとも、これも夢魔の仕業──夢魔の力が増しているからなのか。なんとも判断がつかない。が、悪い兆候であるような気がした。
 駿平は一方的にしゃべるだけしゃべると、鼻歌を歌いながらリビングを出ていった。母親が「おばあちゃん、明日には退院できるから」と告げる。つまり、おれが病院へかようのも今日が最後だ、ということだ。もう沙綾さんには会えないかもしれない。そう思うと、一抹の寂しさを覚えた。
 沙綾さんで思いだしたのか、母親がおれの学校での成績を口にする。こちらは適当に相槌を打つわけにはいかない。業を煮やした母親が祖母と共謀して、沙綾さんに「息子の勉強をみてください」なんて頼みこんだら目も当てられない。
「幼稚園からいっしょだった早見さん、学年トップの成績なんですって?」
 知らない、そんなこと。菜月だったら、そうかもしれない。学業は優秀だったから。いや、いまでも優秀なんだろう。
「もうちょっとがんばってくれないと……」
「ごちそうさま!」
 そう宣言して、リビングから脱出する。不満げな母親の視線が追いかけてくる。
 現実世界。すべての人間が共有する認識で構成された不変の夢。おれの成績がアップするとみんなが認識すれば、おれは学年トップでいられるのだろうか。梁川に頼めば現実をちょこちょこっといじくってくれるかもしれない。そう考えると笑い飛ばしたくなった。
 洗顔、歯磨き。それが済むと、スクールバックに教科書とノートをつめる。机の上に置いたラノベの文庫本。これだけ現実が改変されても、深紅(クリムゾン)の鎧に身を包んだ美少女は少しも変わらずに表紙のなかからおれを見上げていた。豊満な胸の谷間を堪能すると、文庫本をスクールバックに放りこむ。森がこの続きを貸してくれるようなことを言っていた。森が忘れていなければ──あるいは、現実が改変されたことで思わぬ影響が出ていなければ、彼女のさらなる活躍を読めるだろう。それを期待する。
 制服に着替えて、いざ出陣。大樹と菜月、それに梁川が同居している学校へ。
 リビングで新聞に目をとおす父親に声をかける。気のない返事。うん、今日も平常運転だ。ノープロブレム。
 玄関で家のなかに向かい、「行ってきます!」と、大声で。母親の返事。それに背中を押されて、おれは家を出る。
 自転車にまたがって、あくせくとペダルをこぐ。いつものルートをたどろうとして、ふと気がついた。
 あの交差点を避ける理由がないことに。
 この世界の菜月は死んでいない。ということは交通事故もなかったことになっている。いまはもう事故現場じゃない。
 クルマがやっととおれるだけの幅しかない住宅街の生活道路をくぐりぬけ、二車線の道路に突きあたる。白線が引かれた路肩を走り、最初の十字路に出た。自転車を止め、右を向く。ごく緩やかな下り坂が続いている。いつもはとおらない道。通学路からはわざと外していたが、今日は事情が異なる。
 ひとつ深呼吸。意を決して、右の道を進んだ。
 ペダルを後押ししてくれる下り坂の勢いに身を任せていると、ほどなくして四車線の国道に出た。クルマがピンボールのボールみたいに猛スピードで流れていく。大きなトラックがとおりかかるとかすかに足元が揺れた。
 歩道を走る。登校する小学生の集団を追い越し、駅に向かうひとの流れをかわして、あの交差点へと向かう。バイパス道路と交わる大きな交差点。信号が、おれを歓迎するかのようにチカチカとまたたいていた。
 赤信号にひっかかって、おれは自転車を止めた。交差点をじっくりと検分する。
 先週の土曜日まで、ここは菜月が亡くなった事故現場だった。
 いまは──この場所でなにを感じればいいのか、それすらもよくわからない。
 菜月がクルマにはねとばされた交差点の角も、事故のあとに花をたむけたガードレールも、すっかり身を洗い清めて、なにもなかったかのようなたたずまいを演出している。
 しばらくのあいだ、喪失感と虚脱感がないまぜになった感慨にふけりながら、交差点の往来に目を向けていた。クルマのクラクションの音でハッとわれに返る。信号が赤から青に変わる。クルマがいっせいに動きだす。
 ペダルに足をかける。最後にチラリと一瞥をくれて、悪夢の生まれ落ちた場所をあとにする。
 この世界は、なにも答えてくれない。

 学校に着いた。気持ちを落ち着かせて、教室へ向かう。
 自分の席に近寄って──すぐ後ろに菜月が座っていることに気づいた。おれは目をむく。菜月はおれの反応に頓着しない。白い歯をのぞかせて、鮮やかな笑みを惜しみなくふりまく。
「おはよう、翔馬」
 間延びした、なんとも気の抜けるようなあいさつ。思考停止から抜けだすのに数秒の時間が必要だった。あいさつを返すタイミングが一拍、遅れる。
「ああ……おはよう」
 自分の席につく。スクールバックから教科書をとりだしていると、さっそく背後から声がかかった。
「昨日はありがとねぇ」
 おれは吐息をつく。無視できる状況じゃない。椅子のなかで身体をひねり、後ろを向く。
 菜月が、そこにいた。頬杖をつき、にっこりと微笑んで。台風の目のような笑窪がかわいい。