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輪廻のうみ

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 お守りに入ったそれは日が経つにつれて次第に大きくなり、時折言葉のようなものを発した。主にひとつの単語を繰り返し呟いていたが、わたしには理解できないでいた。その言葉は外国語に聞こえることもあったが、秘密の暗号通信のようでもあった。恐らくお守りの子の父親である伸輔にはまだ何も言わないでおいた。伸輔はわたしから解放されて明らかにほっとしているような様子だったが、わたしはそれを見るにつけ、引き出しの中のものを思い出してはほくそ笑んだ。
 このころからわたしは学校に通うことをあきらめ、あれほど好きだった服を買いに行くことも忘れ、一日中お守りの中のものにつきっきりでいるようになったが、母は何も言わなかった。彼女は元々厳しい人だったが、あるとき他の人には見えないものを見、聞こえないものを聞くようになってからは非常に飽きっぽくなり、わたしに対する関心が持続しないようだった。母はよく、わたしが伸輔から巻き上げたバッグにハンマーとスタンガンを詰めて夜ごとに外出し、父がわたしを奪いに来るから、などという妄想じみたことを言って辺りをパトロールしていた。だが、すでにこの世にいない父は当然一度も現われない。母は滅茶苦茶だったがまだ若く美しい女だったので、メタリックゴールドのくたびれたきらめきがよく似合っていた。

 髪を乾かして中学の制服に着替えたわたしは、母が使っていたバッグに携帯とありったけの現金を詰めて家を出た。伸輔の勤める小学校へはJRの駅までバスに乗り、電車を二度乗り換える必要がある。団地の谷間を縫うように進むバスを終点で降り、早足で電車に乗り込むと、緊張で膝の裏側が強張ってきた。わたしの足は数ヶ月の入院ですっかり筋肉が落ち、蝋のような生気のない肌がだらしなくたるんだふくらはぎを包んでいる。自慢の髪も艶を失っていて、わたしは泣きたいほどに醜かった。かつての父や伸輔がわたしの首すじやふくらはぎに向けていたあの粘っこい崇拝の眼差しを思い出すと、胸がすくと同時にやはりただならぬ喪失を感じるのだった。罪の記憶がなければ、伸輔は今のわたしにひれ伏すことなどないだろう。わたしは十四歳にして、もう誰からも愛されることはないのかもしれない。それは喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか、わたしにはまだ分からない。

 学校へ行かなくなって四ヶ月ほど経ったころ、夏休みの終わり、台風が迫っていた夕方、わたしは久しぶりに家を出て伸輔を呼び出した。のっぴきならない状況になったからだった。母はしばらく薬を手に入れられなかったせいで手の付けようがないほど滅裂になっていて、父の襲撃を恐れて玄関扉のノブを針金でぐるぐる巻きにし、わたしの手を引いて、窓から出て逃げよう、などと言うので揉み合いになった。そのとき間の悪いことに、お守りの中のあの子が目を覚まし、例の単語を大声で叫んだ。わたしの部屋に踏み込んだ母は、わたしの名前を呼びながら引き出しを探った。そのとき、母の蝋のような白い手があの子の手に偶然触れた。母はあの子の手をわたしの手だと勘違いし、あの子の手をつかんだまま窓から外へ飛び出した。裸足のまま、不吉な湿気が立ちこめる中、母とあの子は母がわたしを産んだ海岸を目指した。夕焼けの赤い光が街中を血色に染め始めていた。
 わたしは母を追ったが途中で見失い、伸輔に助けを求めた。海岸沿いの国道に呼び出してあの子のことを打ち明けたが、伸輔は頑なにわたしの話を信じようとはしなかった。青ざめた厚い唇で、だって君はまだ、と言ったまま黙り込み、わたしが何を言おうとも首を振るだけでまるで話にならなかった。そのとき、台風の横暴な風に散らされて、途切れ途切れの言葉がわたしたちの足元に落ちてきた。それをひとつ拾い上げてみると、かすかにあの子の甘い匂いがした。わたしは伸輔を駐車場に置いて、砂浜へ向かってただ走った。
 一分の隙間もなく鮮血に染まった空と海は、かぼそい水平線のおかげで辛うじて分離状態を保っていた。砂も波も血の色を映していて、海辺はまるで虐殺現場のような有様だ。あの子はひとり砂浜に置き去りにされ、力なく座り込んでいた。あの子の姿を見つけたとき、わたしは手のひらに痛みと母の手の熱さを感じた。そしてあの子はわたしに分かる言葉で、お母さん、と言った。あの子が話す言葉は、母であるわたしだけが受信することのできる秘密の暗号であることを、そのときようやく理解できたのだった。わたしはあの子の手を取って、今まで分かってあげられなくてごめんね、と言うと、あの子はにっこりとほほ笑み、わたしを海へと導いた。
 ああ、待って、お父さんをあのままにしては行けないの、とわたしが団地の裏庭に埋められて骨になっている父を思い出してためらうと、わたしの体は一瞬のうちに数メートル後退し、あの子が手を引いているのは母に変わっていた。海の向こうへ行って、お父さんと三人で暮らそう。そうしたら今度こそうまくやれるから。母はわたしを振り返って、今まで見たことのない、理性を宿したやさしげな笑顔でそう言い、ばら色の頬が夕焼けを照り返し、ゆっくりと海へ消えて行った。
 お守りだけを、わたしの手に残して。

 伸輔が勤めている小学校に着いたときには、ちょうど四時間目が終わるところだった。正門はしっかりと閉められていたが、あまりにも低かったので乗り越えるのは簡単だった。わたしはまっすぐ職員室へ向かった。学校なんてどこも同じような構造をしているものだ。伸輔は机の上で弁当箱の包みを開けながら、他の教師と雑談していた。しかし昼休みの職員室に堂々と入ってきたわたしを見るなり、人の良さそうな笑顔は凍りつき、必死で机をごそごそとやり始めたが、他の教師は間抜けづらをさらしてわたしを眺めているだけだった。わたしは声を出すことも、携帯を取り出すことも、伸輔に近づくこともしなかった。うっすらと煙草臭い空気からは、静寂と死の匂いを感じていた。腱と血管が浮かび上がった手首に巻きつけたお守りがごそりと動き、お母さん、と泣いた。それは紛れもなくわたしの声だった。母へ向けた、わたしからの秘密の暗号通信。現実の音が消え、あの日の血の海だけが鮮明に息を吹き返していた。泣きたいような、満たされたような、不思議な感覚だった。
 あの子は、いや、わたしは、何のために二度も生まれ直したのだろう。誰かに愛されるためではなかったのだろうか。だがその理由を考える時間は残されていなかった。数秒ののち、伸輔が机の中から探し出したのは、のっぺりと鈍く輝くハンティングナイフ。そういうわけで、わたしの生涯はここで終わる。

 輪転したわたしは母と一緒に海の向こうへ行った。母の美しい顔は日焼けしていて、何に怯えることもなく、太陽が昇って沈むだけの簡素な土地で、永遠に幸福な夢を見ている。もうこの世にいない父も、海を渡ってそこへ辿り着けるならきっとそうするだろう。

 わたしたちは今度こそ、うまくやれるはずなのだ。
作品名:輪廻のうみ 作家名:まちこ