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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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影さえ消えたら 7.真実 (最終章)

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 綾女が好きだと、その一言を口に出来たらどれだけ楽かと思った。十六年前はそれができた。その言葉が全てだった。飽きもせず何度も繰り返した。綾女はいつも笑って受け止めてくれた。

 けれど今その言葉は何の力も持たない。そんな言葉ひとつで綾女の涙を止めることはできない。無駄に期待をさせて、余計に泣かせることだけはいやほどよくわかっていた。
 そっと顎をすくい上げて口づける。熱い雫が口の端を濡らしていく。

「元気で」

 綾女の頬をぬぐうと、彼女は目を閉じた。最後に一粒大きな涙が落ちて、それから綾女は微笑んだ。

「隼人もちゃんとご飯食べや」

 そう言った綾女はもういつもの綾女だった。明るくて快活で、いつも隼人に命の輝きを与えてくれた彼女だった。笑った口元に少し影ができて、お互い重ねた年月を感じさせた。

 隼人が車に乗りこむと、兄が家から出てきた。ガラス越しに母によく似た笑顔で手をふっている。

 その前を斉藤の親父が通っていった。相変わらず世を拗ねたような目で隼人を睨んでくる。その瞳に以前のような威圧感はなくて、彼の中にも時が流れていることを感じる。

 これでよかったと思う。大輔も斉藤の親父も琴菜も、そして兄も元通りになって元通りの生活を送る。消える前と今の違いはわからない。少なくとも自分と綾女には「消えた」記憶が残っていて、知らなかった頃には戻れない。それでもいいと、今は思える。自分たちのやってきたことが残って積み重なって、それが辛い記憶だとしても少しずつ変わっていける気がする。

 サイドガラスを下ろしたが、綾女は近づいてこなかった。東京に発った十六年前と同じように眉をしかめて泣き出しそうになるのを懸命にこらえている。

 けれど隼人と目が合った途端、ぱっと笑顔に切り替わった。そのことが余計に胸を痛めさせる。大人になった今、そうしなければ別れとむき合えないことも、わかっていた。

 隼人はふっと頬をゆるめると、手招きをした。不思議そうに首を傾げながら、綾女が近づいてくる。

 握ったこぶしを運転席の外に出した。何度か催促をして、ようやく綾女が手のひらを伸ばす。

 隼人の手のひらから転がり落ちたのは真新しい口紅だった。捨ててしまった真っ赤な口紅とは違って、ほとんど色のついていないものだ。

「次来たときは、もっとおまえに似合う色を探したるから」

 その言葉でまた綾女の涙腺がゆるんだ。泣かせたくはなかったけれど、口紅の存在そのものを忘れていたせめてもの償いだった。

 ぼろぼろとこぼれ落ちる綾女の涙を見ながら、隼人はアクセルペダルに足をかけた。河から吹く風が彼女の頬を乾かしてくれることを祈り、窓を閉める。

 じっとりとした湿気は車の中に残ったままだ。額の汗をぬぐうと、かさぶたのざらつきを感じた。無数の傷と痣を残したまま、一度は投げ出したあの生活に戻っていく。

 果てしなく広がる夏の青さに圧倒されながら、それでも生きたいと隼人は思った。

   (完)