影さえ消えたら 7.真実 (最終章)
綾女の家でシャワーを浴びてこっそり扉を開けると、バスタオルの横に隼人の服が置かれていた。大輔が取りに戻ったのだろうか、と周囲を見渡していると、目の前に大輔の顔が現れた。
「あいつらむこうでしゃべっとるし、今のうちに出えや」
2DKの狭いアパートには脱衣場がなく、風呂場の戸を開けるとすぐにキッチンに続いている。隼人がバスタオルだけ素早くとって腕を引っこめると、大輔が扉越しに声を上げた。
「おまえんちに服取りに行ったら、兄貴夫婦が実家にきてたで。隼人ももう東京に戻るんか?」
体をふきながら、一度は消えてしまった記憶の底を探る。母が亡くなったときに電話をかけてきたのは兄の直人で、喪主も彼が務めた。葬儀のあと急な仕事で呼び出され、兄嫁は子供たちを連れてむこうの実家に戻っていた。今日、出張が終わって兄も兄嫁たちも元住んでいた実家近くのマンションに戻ってくる。
父が建てたあの古家は、リフォーム工事をしたのち兄の一家が住むことになっていて――
そこまで思い出して、隼人は息をついた。ひとりでゆっくり頭の整理をしたかったが、大輔が早く出てこいとせかしてくる。濡れた髪のままキッチンに引きずり出され、あわてて下着を手に取る。
「……綾女のことは心配せんでええ。なんかあったらすぐ連絡したるから」
隼人に服を渡しながら、大輔が小声でつぶやいた。今さら彼の想いに気づいたところで何かが変わるわけではない、と思いながら、よく日に焼けた大輔の手を見つめる。
「おまえ本当は……綾女のことが好きだったんだろ?」
リビングにいる彼女たちに聞こえないように、隼人はささやく。すると大輔は困ったように眉をよせて口の端を上げた。
「……あいつの力になってやりたい。ただそれだけやったんや。けど俺は……やり方、間違えたみたいや」
彼にいつもの覇気はなかった。ポロシャツに腕を通しながら「俺も間違ってばっかりだ」と返すと、大輔はおもいきり背中を叩いてきた。
「悔しいから今まで言わんかったけどな、俺、いっぺん死にかけて命を救われたことがあるんや。調子に乗って屋根から転げ落ちた俺を助けてくれた人は、腹立つくらいおまえによう似た人やった。あのことがあったから今の俺があるんや。俺の命の恩人と瓜二つの顔で、そんな腐った表情すんなや」
その言葉に、初めて過去の時代に飛んだ日のことが思い浮かぶ。あの頃、隼人と綾女の関係に一点の曇りもなかった。未来の空はどこまでも澄み渡っていた。大輔も、きっと琴菜も今ある自分の姿は想像もつかなかったはずだ。
「琴菜もな、おまえによう似た人に助けられたて言うてた。不思議なこともあるもんや。けどその救ってもらった命をどう使うかは、自分次第やろ。いつかあの人に会うたときにちゃんと胸張って生きてたいて、俺は思ってるんや」
大輔の瞳にはまたあの自信が戻ってきているようだった。けれどそれは決して押しつけがましいものではなく、この日に至るまで彼が必死になって積み上げてきたものだとようやく気づく。
「隼人もずっとひとりでがんばってきたんやろ。そろそろ自分を許してもええんとちゃうか」
「自分を……許す?」
大輔が言おうとしていることがくみ取れず、隼人は首を傾げる。すると彼は突然隼人の顔を両側から鷲掴みにした。「それやその腐った顔」と言って睨んでくる。
「こっちに戻ってきた時からずっとそうやって眉間に皺寄せて、そんなん疲れるやろ? みんなおまえに戻ってきてほしいて思てるんや。俺も、琴菜も……それから綾女も」
そうささやくと大輔は両手のひらを顔から離して、隼人の眉間に指を突きつけた。
「帰ってくる覚悟ができたら俺んとこ連絡してこい。住むとこくらいすぐ見つけたるわ」
自信たっぷりにそう言って隼人の額を指ではじいた。尊大な態度は相変わらずだったけれど、彼の本音を知って隼人は苦笑する。
帰る覚悟ができたら――その言葉を拒否することもうなずくこともできず、大輔の大きな肩に手を乗せた。リビングからは綾女たちのにぎやかな声が聞こえてくる。買ってきた総菜を広げて夕食の用意をしているらしい。綾女と琴菜はぎこちない笑顔を見せている。真夕もまだ琴菜を警戒している様子だが、そんなしかめっ面さえも今は微笑ましく思える。
大輔が背中を押す。隼人の姿に気づいた真夕が抱きついてくる。足に力の入らない隼人は真夕ごとうしろにひっくり返ってしまう。綾女が笑っている。琴菜も大輔も笑っている。目の前に真夕のまっさらな笑顔がある。
けれど今はただ腹を満たして、何も考えずに眠ってしまいたかった。
作品名:影さえ消えたら 7.真実 (最終章) 作家名:わたなべめぐみ