影さえ消えたら 7.真実 (最終章)
7.真実
目を覚ますと、茜色の空が広がっていた。
骨のきしむ音を感じながら、隼人は体を起こす。みずぼらしく痩せた一級河川は、夕日をあびて穏やかに流れている。
髪をかきむしると乾いた泥がパラパラとこぼれ落ちた。服はすっかり乾いているが、あちこちに草切れがついている。
「ひどい格好やな」
そう言って笑ったのは綾女だった。草むらに立つ足には何も履いておらず、手には例のノートを持っている。
隼人はそっとノートを抜き取って言った。
「……これはもうおしまいにしよう。……いいよな?」
夕陽に染まった綾女が、こくりとうなずく。全身に痛みを感じながら立ち上がると、隼人は表紙から順に破っていった。
二つに引き裂かれた紙を、綾女が黙って細かくちぎっていく。分断された無数の「×」が二人の足元に散らばっていく。
一通り破り終えると、綾女はそれを河にむかって投げ捨てた。真夏だというのに、雪のかけらのようなそれらが宙を舞って、河の流れに乗っていく。
「こんなことしたら、また怒られるな」
そう言いながら、隼人も次々とノートの切れ端を舞い上がらせる。童心に返ったように二人は無心になって水面に投げ入れていく。
「怒られるて、誰に?」
「そりゃあ親父とか母さんとか……」
つられてそう返したものの、この時代にもう両親はいないのだと気づく。残されたのはあの古い一軒家だけで、幼い頃のように隼人を怒る人物はもう誰も思いつかない。
ふと、小学校六年の時、牧琴菜と共に図書準備室に閉じこめられたときのことを思い出した。あの時、帰ってきた隼人にげんこつをくらわしたのは、亡くなった父でも近所の親父でもなく、たまたま実家に戻ってきていた兄だったはずだ。
「そういや兄貴がいたな。こんな格好で家に戻ったら、また笑われるよ」
「……直人さん、ちゃんと戻るかな」
じわじわと湧き出してくる兄の記憶と、綾女の顔が重なる。幼い頃の綾女は兄のことを「なおくん」と呼んでいた。いつの間に「直人さん」と呼ぶようになったのかはっきりしないが、高校生の綾女と大学の卒業を控えた兄が一緒に笑っている光景が思い浮かんだ。
十六歳の夏、隼人と兄と綾女は、将来への希望を胸いっぱいに膨らませながら、あの古い家で笑っていた――
「……きっと真夕ちゃんが心配してるよ。一度綾女の家に戻ろう」
そう言って最後の切れ端を舞い上がらせると、綾女は小さな声で返事をした。肩にふれる黒髪が、夕刻の風をあびて優しくなびいている。
「真夕ちゃんが生まれたのって、こんな夕方だった?」
ふと思いついたことを口にすると、綾女はやわらかに微笑んだ。
「なんでわかったん?」
「だってほら、名前がさ」
橋のむこうに続く茜色の雲海を指さすと、綾女はクスリと笑った。
「あの子を産んだ日は、きれいな夕焼けやった。産院の廊下が真っ赤に染まって眩しいくらいやった。うちはそれまで夕焼けが嫌いやった。日が落ちてひとり家に帰らなあかんあの時間が嫌やった。けど真夕を産んで初めて、夕焼けがきれいやと思った。あの子と一緒におると、世界の色がちょっとずつ変わっていくんや」
丸みを帯びた頬が、優しい弧を描く。真夕の話をする綾女は心奪われるほど穏やかな笑みを讃えていて、隼人はそっとその手を取った。
「俺もおんなじ気持ちだ」
「隼人も世界の色が変わった?」
「実家の庭があんなにきれいに見えたのは初めてだった」
手を握ったまま歩き出すと、綾女はいたずらっこのように笑って言った。
「ほんまは全部刈り取るつもりやったんやろ」
「ばれてた?」
隼人が苦笑いをすると、綾女は「ほんまにもー」と言って肩を当ててきた。手は握ったままだった。見慣れたはずの夕焼けは、目が眩むほど美しく街を茜色に染めていた。
作品名:影さえ消えたら 7.真実 (最終章) 作家名:わたなべめぐみ