大晦日の歌姫
「雪だ……」
私がそっと掌を空へと翳すと、咲ちゃんは両手を広げて跳ねながらその歌を唄い出した。
――私の熱情が雪をも溶かす程に……
――私の心の熱のせいね 粉雪が消えるのは……
彼女は目を細めて跳ね回りながら、その明るい軽やかな歌声をどこまでも宇宙の彼方へと広げていった。そこにはきっと、咲ちゃんの歌いたいという純粋な気持ちが篭められているに違いない。私はただその想いを受け取って彼女の奇跡を祈るだけだ。
きっと歌手になってね。それで、私も咲ちゃんの歌をずっと聴き続けていきたいから。
そう思いながら、私は何度も振り返って手を振り、そっと宵闇へと消えて行った。雪が道路を白く染め上げても、私の視界を光が満たしても、彼女の歌声はどこからか私の背中を追って、前へと踏み出させてくれた。
それだけでもう、私は来年も夢に向けて頑張ろう、と強い気持ちを抱くことができるのだった。
*
家に帰った私は両親と一緒に食事をしながら、紅白歌合戦を観始めた。その年の最後を彩る番組として、私達は大いに盛り上がって、心地良い年末を過ごした。咲ちゃんが唄っていた、あのクリスマスバラードが流れて、私はテレビに張り付いて見入ってしまった。
そうしてもうすぐ紅白が終わろうというところで、普段から仲良くしている高校時代からの友人からメールが入った。バイトお疲れ~、もうすぐ今年も終わりだね、と絵文字付きで送られてきた。
私はすぐに偶然の再会について語り出し、すぐにメールを送信したけれど、何故かそれから全く返ってこなかった。どうしたんだろう、と私は怪訝に思いながら自室に篭って、ベッドに腰かけて待っていたけれど、そこでようやく返信が来た。
「それ、本当なの? 咲ちゃんとは、どこで会ったの?」
普段から絵文字を多く使う友達が、その時だけは本当に真剣そうな雰囲気で、メールを返してきたのだ。
「え? 郵便局の前にある通りだけど。コンビニが一軒だけある道……」
その返事からも、しばらく答えは返ってこなかったのだ。
やがて沈黙の後に、冬の寒気よりももっと、心に凍てつくような言葉が送られてきたのだった。
「そんなこと、あるんだね。咲ちゃんは、もう――」
――嘘だよ。私は携帯を握ったまま、そうぽつりとつぶやいた。でもその声は、一人きりの部屋では本当に空しく、滑稽に、そして重苦しく響くだけだった。
そして、友人は咲ちゃんのことについて話し始めた。彼女が半年前に、その運命に絡めとられてしまったこと。それは本当に信じたくないことで、そして信じられないことで、また受け入れることのできない事実だった。
「嘘だよね? だって咲ちゃん、さっき――」
「音大に通ってたことは確かだよ。現場はその道路であることも間違いないから」
私はスマートフォンを操作して、すぐにその事実を確かめ始める。そして、その内容に間違いはなかった。なんで、こんな大切なことを私は気付かずに見過ごしていたんだろう。
「奏も知っているのかと思ってた。それで、触れないのかと」
「嘘でしょ、咲ちゃんは歌手になりたいって言ってたんだよ。そんなの……そんなのって、絶対に嫌だよ」
私はスマートフォンをベッドに振り落として、宙を見上げたまま、涙を降らせた。それは暖かい空気の籠った部屋の中で降った、寒々しい雪の結晶だった。
咲ちゃんはもうこの世にはいないのだ。でも、彼女の歌声は確かに、私の心に雪を降らせたのだ。それは間違いなく私の心を震わせて、この世に歌声を響かせるような、揺らぎようのない事実なのだ。
それでも、自分に言い聞かせることはできなかった。私は額に手を当てて泣き続け、涙の余韻をメロディに乗せて、空白の時を過ごした。
咲ちゃん、また歌ってよ。だってもう、あなたは歌手になったんだよね。
その言葉は、空の向こうにいる彼女に届いているのかな。そして、まだあの冬のバラードを口ずさんでいるのかな……でも、どんなに考えても、わからなかった。
そんな私の揺れる心が零したつぶやきが、雪を溶かせて涙の暖かさを肌に感じさせるのだ。
*
凍えるような冷たさの雪道も、陽の光が淡く琥珀色に差し込んでいくと、暖かく煌めき始めるのだ。それは冬の名残を引きずって春を迎えた時、一層冷たさが余韻となって陽射しを透明に輝かせるのだ。
私は雪が降り積もった道を慎重に歩いていき、細い息を吐いた。足は棒立ちになって凍り付いてしまいそうだ。朝陽は道路の雪を溶かして車がゆっくりと脇を通っていった。そして、まっすぐにその道を進み続けて、私は言葉もなく、迷いもなく、そこを目指していた。やがて見えてくるその段差が、雪で盛り上がっていることがわかった。
「……咲ちゃん、」
私はつぶやき、そこに花束を置いた。雪化粧された大地に、歌の余韻に花咲く私の願いがそっと降り立った。じっとその雪の塊を見つめていたけれど、私はぐっと唇を噛んで堪え、屈み込んで一気に雪を掻き分け始めた。
冷たさが、切っ先が、肌を痛めても私はコンクリートを目指して掘り続けていた。やがて感覚のなくなった掌に、萎れた花弁が染み付いたのがわかった。私はそっとそれに触れて雪から解き放った。
そこに咲いている一つの花。私が持ってきたものではなく、何本もの花束が雪に隠れてそこに置かれていたのだ。
私はその場所で歌を聴いた、その確かな記憶を思い返すのだった。そして彼女がしたように、両手を広げて段差を跳ねながら、歌い出した。
音程が狂っていても、メロディーがずれていても、音痴でも、私は彼女を想って、冬のバラードを唄い続ける。咲ちゃんはきっと向こうでも歌姫として、たくさんの熱狂に包まれて、幾千もの人々に心の震えを届けているに違いないのだ。
私はこの世で息づく全ての奇跡の為に、歌を唄うのだ。
くるくると足を滑らせながら、咲ちゃんの声を鼓膜に感じた。あの至高の歌声は、私の心に熱となって焼き付いている。それはいつでも、扉の奥に仕舞われた宝石箱のように、煌めく光を放って冬空に瞬いている。
私は唄う、冬のバラードを、幾千の星を想って。
――私の熱情が雪をも溶かす程に……
――私の心の熱のせいね 粉雪が消えるのは……
――いいえ、それは通りすがりの人の吐息みたいよ
私の涙がふわりと宙を流れ、舞いながら、雪となって地上に降り注いでいく。
そこには確かに、一人の歌姫――私ではなく、本当の歌姫が舞い降りていたのだ。
了