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博士の天才

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 『女湯』と染め抜かれた暖簾のはるか下を博士はくぐった。

「まさか、こんなことが……」
 脱衣場の入り口で博士は絶望感に打ちのめされた。
 スリッパを脱ぐための上がり框……わずか3センチの高さでしかないが、今の博士にとっては刑務所の塀に等しい、博士は思わず涙ぐんだ……数々の困難を乗り越えてようやくここまでたどり着いたと言うのに……。
 しかし、神は博士を見捨てていなかった。
 ワイワイ、キャーキャーと賑やかに入ってきた若い娘の3人連れ、その中の1人が脱ぎ捨てたスリッパが上がり框に斜めにかかっている。
「なんという幸運だ」
 つるつると滑るビニール製のスリッパではあるが、1センチ6ミリの博士にとっては手がかり、足がかりはいくらでもある、博士はなんとかよじ登り、ようやく大浴場へ……。

(これは……)
 博士が望んだ景色であることは間違いない、しかし、今の博士にとってはごく小柄な女性でさえゴジラ並みの大きさ……胸をときめかせる景色とは言い難い。
「うわっ!」
 呆然と立ち尽くす博士を巨大な湯の塊がなぎ倒す。
 さっきの元気な三人連れがふざけて湯を掛け合っている、そのしぶきがひと粒、博士を直撃したのだ。
「く……なんのこれしき……うわぁ!」
 今度は濁流が博士を飲み込む。
 掛け湯が作る湯の筋ですら今の博士にとっては激流に等しい、何とか立ち上がりかけていた博士だったが、二杯目の掛け湯に押し流されてタイルの床を滑って行く……。
「まずい!」
 博士は泳ぎも苦手……いや、この状況では少々泳げてもたいした役には立たないかもしれない……博士は湯と共に排水口へと押し流されて行く。
「死んでなるものか!」
 博士はすんでの所でステンレスの格子にしがみつき、なんとか脚をかけてよじ登りにかかる。
「ごぼ……げほ……」
 三杯目の掛け湯だ……博士は息も出来ずに必死で格子にしがみつく他ない。
 幸い、掛け湯をしていた女性は立ち上がって湯船の方へ……。
「だめだ……命あっての物種、ここから早く抜け出さなくては……」
 博士は渾身の力を振り絞って格子をよじ登った……。

  
「酷い目にあった……」
 帰路は一大アドベンチャーにはならなかったものの、自分の部屋の前まで辿り着いた博士は息も絶え絶え。
「もう早く元に戻りたい……」
 涙さえ浮かべた博士がドアの下をくぐろうとすると……。
「しまった、この風圧は……」
 博士が部屋を出たのは概ね4時半、それから約2時間半が経過している、山間にあるこの温泉地では日の入りは早く、日が落ちるとぐっと気温が下がる、自動にセットされている部屋のエアコンは今フル稼働中、部屋を出る時は追い風だったが今は向かい風、しかも風圧は格段に増している。
「だ……だめだ……とても前へ進めない」
 元気であったとしても厳しい風圧、しかも博士は2時間半に渡る大冒険で疲れ切っている。
「まずいぞ……このまま元に戻ったら……」
 その瞬間を目撃されたら大騒動になる、しかもそれだけではない……。
「着る物を何とかしないと……」
 素っ裸で廊下にいる理由に説明はつかない。
「あそこだ……あそこに隠れる他はない」
 10m先にあるトイレ……個室に入って隠れる他は……。
 たかが10m……しかし、今の博士にとっては1km……。

「ふう……なんとか元に戻る瞬間を見られずに済んだ……」
 トイレの個室の中で元のサイズに戻った博士は大きなため息をついた。
 そっとドアを開けて廊下を覗う……幸いなことに人影はない。
「今のうちだ!」
 博士はドアに駆け寄る……たったの10m、しかしその数秒のなんと長かったことか……。
 ドアノブに手を掛け、一気に…………回らない……。

「何てことだ! オートロックじゃないか!」


「ミ……ミイラ男!?」
 フロントに頼んで合鍵を出してもらうしか方法はない、そして体を隠せるものはトイレットペーパー位しか見当たらない。
 そして恥ずかしさのあまり、顔まで隠したのは却って騒ぎを大きくしただけだった。


作品名:博士の天才 作家名:ST