『ヴァルトハールの滅亡』(『遥かなる海辺より』付章)
その1(『鉄鎖のメデューサ』第11章)
「私は神の啓示を受けた。それ以前のことは何も覚えていない。啓示を受ける前は覚えていたのか、それさえもうわからない」
語り始めたばかりで言葉を途切らせた黒髪の尼僧のまなざしに浮かぶ表情はロビンには計り知れないものだった。しばしの沈黙の後、少年は声をかけた。
「その啓示って、どんなのだったの?」
「……私の名を呼んだ。ラルダ、と。そして続けた。あるべき場所で、あるべき姿で、と。次いで故郷から引き離されたことで運命を狂わせられたものの姿が示され、そのものがいる場所が告げられた。いくつかの力も授かった。今から二年前のことだ」
「じゃ、あなたは二年も前からクルルを探していたの? クルルはそんなに前からつかまっていたの?」
ロビンの言葉に、ラルダはかぶりを振った。
「私がそのとき見たのはクルルじゃなかった。まだ子馬ほどの大きさしかない翼も伸びていない火竜の姿だった。東方の小さな国の王が、飼い馴すことができれば他国を攻める強力な力になると考え捕らえさせたものだった。
私は火竜が城に連れ込まれる前になんとか助け出した。そして故郷の火山にどうにか戻すことができた。神はどうやらそれ自体の運命のみならず多くの者の運命も狂わせかねないことだから、私に指し示したように思えた」
「あなたは竜をつれて逃げたというの?」
「おまえが驚くことはないだろう? 結局は怯えた子供だったのだから。まあ、クルルより荒っぽい気性だったのも事実だが」
苦笑した尼僧は、しかし緑の瞳に苦い感慨を浮かべていた。
「人間たちが魔物と呼ぶ存在の多くは、結局のところ生き物にすぎない。ただ生きていくために身につけた能力がいささか強力なせいで人間の目を引く、そんな存在にすぎない。そして強力であるのと引き換えに彼らの数は少ない。そして人間は無知ゆえに、その力への過大な恐れや場合によっては欲望を抱くことになる。あの王は自分が竜を制御できるかどうかもわからぬまま、竜の炎で隣国を蹂躙する幻想に溺れたのだ。自分の国が炎の災いを被るかもしれないなどとは考えもせずに」
ラルダはロビンの背後の妖魔にちらりと目を向けた。
「石化の魔眼の力は魔力であるがゆえに、いまや人間にとっては破れない力ではない。しかし石化を破れぬ身にとっては、それは今でも死ぬのと同義だ。ある種の蛇が持つ猛毒にも匹敵する力であるというほかない。
それでも本来の場所で生きていく上でなら、それは調和の中に納まるものなのだ。自分よりはるかに強くて大きな相手から身を守るために備わった力なのだから。そして猛毒を持つ蛇にも音で敵に警告したり鎌首を広げて立ち上がり威嚇するものがいるように、クルルの種族もやみくもに相手を石化するわけではない。自然の理に生きるものたちは避けられるならば争いを回避しようとするものでもあるのだから。おまえは蜂を見たことがある?」
「夏に花が咲く時期になると、どこかから飛んでくる」
「黄色と黒の目立つ模様をしているだろう? あれは自分が毒針を持っていると大きな敵に示すためにあんな目立つ色をしているのだ。クルルの種族は数は少ないながらも大陸中部に広く棲んでいる。そして棲んでいる場所で背の色が違う。岩砂漠にいるものは薄茶と灰色の斑だ。そしてクルルのその緑色は樹海を故郷とするものである証だ。自分の棲む場所に溶け込む色だ。
けれどどちらに棲んでいるものも、胸の毛の白と腹の鱗の赤は同じだ。それが警告なのだよ。ロビン。正面にいる敵に自分が危険だと知らせるための。クルルは樹海に帰してやれば、自然の理の中で生きていくことができる。その体の色にはそういう意味があるのだよ。
そしてそれは雪と氷で白一色のこのスノーフィールドでは意味をなさない。あえていえば、ここが本来のすみかではないことをあからさまにしているだけなのだ。たとえ街から逃れられても、この土地ではクルルは自然に生きていくことはできない。だから私はクルルを樹海へ帰すつもりだ」
緑の瞳がロビンの顔を再び見つめた。
「おまえも私といっしょに行くか? ロビン」
「僕が?」
思いがけない言葉に驚いたロビンにラルダはうなづいた。
「おまえの力ではとても行くことはできない場所だ。それにおまえがどういうつもりなのかもわからなかった。だから私は一人でクルルを連れていく気だった。おまえにそう言い聞かせるつもりだった。
けれど、おまえの話を聞いて考えが変わった。正直なところ、私はおまえの話に驚かされた。お前は街の一介の住人にすぎないのに、大きな理をまっすぐ見抜く力があるのかもしれない。私はおまえに外の世界を見せてみたい気がするんだ」
「外の世界を? 僕に?」
「もちろん強制はしない。それにクルルをさらった者の正体も、その目的もわからない。こんな遠くまでメデューサを連れてきて何をする気だったのか見当もつかない。だから相手の出方も判らないし、そうである以上危険かもしれない。無理にとはとうていいえない。
けれど、おまえは川舟で果物を売るだけで一生を終わる者ではないような気がする。それにクルルとこれほどの絆を築いたおまえがいれば、私の力だけでは及ばぬ困難も切り抜けられるかもしれない。そんな気もする」
「あなたが失敗することもあるの?」
驚いたロビンの言葉に、黒髪の尼僧の顔は翳った。
「……最初は火竜の子供だった。そしてクルルは三度目だった。首に鎖の付いたメデューサが氷に閉ざされた姿を幻視した私は、神の声がただ一言、スノーフィールドと告げるのを聞いた。
二度目は人魚だった。けれど、あの時私は間に合わなかった。それが恐ろしい結果につながってしまったんだ」
呻くようなその声に、思わずロビンはかたずをのんだ。
「私は神の啓示を受けた。それ以前のことは何も覚えていない。啓示を受ける前は覚えていたのか、それさえもうわからない」
語り始めたばかりで言葉を途切らせた黒髪の尼僧のまなざしに浮かぶ表情はロビンには計り知れないものだった。しばしの沈黙の後、少年は声をかけた。
「その啓示って、どんなのだったの?」
「……私の名を呼んだ。ラルダ、と。そして続けた。あるべき場所で、あるべき姿で、と。次いで故郷から引き離されたことで運命を狂わせられたものの姿が示され、そのものがいる場所が告げられた。いくつかの力も授かった。今から二年前のことだ」
「じゃ、あなたは二年も前からクルルを探していたの? クルルはそんなに前からつかまっていたの?」
ロビンの言葉に、ラルダはかぶりを振った。
「私がそのとき見たのはクルルじゃなかった。まだ子馬ほどの大きさしかない翼も伸びていない火竜の姿だった。東方の小さな国の王が、飼い馴すことができれば他国を攻める強力な力になると考え捕らえさせたものだった。
私は火竜が城に連れ込まれる前になんとか助け出した。そして故郷の火山にどうにか戻すことができた。神はどうやらそれ自体の運命のみならず多くの者の運命も狂わせかねないことだから、私に指し示したように思えた」
「あなたは竜をつれて逃げたというの?」
「おまえが驚くことはないだろう? 結局は怯えた子供だったのだから。まあ、クルルより荒っぽい気性だったのも事実だが」
苦笑した尼僧は、しかし緑の瞳に苦い感慨を浮かべていた。
「人間たちが魔物と呼ぶ存在の多くは、結局のところ生き物にすぎない。ただ生きていくために身につけた能力がいささか強力なせいで人間の目を引く、そんな存在にすぎない。そして強力であるのと引き換えに彼らの数は少ない。そして人間は無知ゆえに、その力への過大な恐れや場合によっては欲望を抱くことになる。あの王は自分が竜を制御できるかどうかもわからぬまま、竜の炎で隣国を蹂躙する幻想に溺れたのだ。自分の国が炎の災いを被るかもしれないなどとは考えもせずに」
ラルダはロビンの背後の妖魔にちらりと目を向けた。
「石化の魔眼の力は魔力であるがゆえに、いまや人間にとっては破れない力ではない。しかし石化を破れぬ身にとっては、それは今でも死ぬのと同義だ。ある種の蛇が持つ猛毒にも匹敵する力であるというほかない。
それでも本来の場所で生きていく上でなら、それは調和の中に納まるものなのだ。自分よりはるかに強くて大きな相手から身を守るために備わった力なのだから。そして猛毒を持つ蛇にも音で敵に警告したり鎌首を広げて立ち上がり威嚇するものがいるように、クルルの種族もやみくもに相手を石化するわけではない。自然の理に生きるものたちは避けられるならば争いを回避しようとするものでもあるのだから。おまえは蜂を見たことがある?」
「夏に花が咲く時期になると、どこかから飛んでくる」
「黄色と黒の目立つ模様をしているだろう? あれは自分が毒針を持っていると大きな敵に示すためにあんな目立つ色をしているのだ。クルルの種族は数は少ないながらも大陸中部に広く棲んでいる。そして棲んでいる場所で背の色が違う。岩砂漠にいるものは薄茶と灰色の斑だ。そしてクルルのその緑色は樹海を故郷とするものである証だ。自分の棲む場所に溶け込む色だ。
けれどどちらに棲んでいるものも、胸の毛の白と腹の鱗の赤は同じだ。それが警告なのだよ。ロビン。正面にいる敵に自分が危険だと知らせるための。クルルは樹海に帰してやれば、自然の理の中で生きていくことができる。その体の色にはそういう意味があるのだよ。
そしてそれは雪と氷で白一色のこのスノーフィールドでは意味をなさない。あえていえば、ここが本来のすみかではないことをあからさまにしているだけなのだ。たとえ街から逃れられても、この土地ではクルルは自然に生きていくことはできない。だから私はクルルを樹海へ帰すつもりだ」
緑の瞳がロビンの顔を再び見つめた。
「おまえも私といっしょに行くか? ロビン」
「僕が?」
思いがけない言葉に驚いたロビンにラルダはうなづいた。
「おまえの力ではとても行くことはできない場所だ。それにおまえがどういうつもりなのかもわからなかった。だから私は一人でクルルを連れていく気だった。おまえにそう言い聞かせるつもりだった。
けれど、おまえの話を聞いて考えが変わった。正直なところ、私はおまえの話に驚かされた。お前は街の一介の住人にすぎないのに、大きな理をまっすぐ見抜く力があるのかもしれない。私はおまえに外の世界を見せてみたい気がするんだ」
「外の世界を? 僕に?」
「もちろん強制はしない。それにクルルをさらった者の正体も、その目的もわからない。こんな遠くまでメデューサを連れてきて何をする気だったのか見当もつかない。だから相手の出方も判らないし、そうである以上危険かもしれない。無理にとはとうていいえない。
けれど、おまえは川舟で果物を売るだけで一生を終わる者ではないような気がする。それにクルルとこれほどの絆を築いたおまえがいれば、私の力だけでは及ばぬ困難も切り抜けられるかもしれない。そんな気もする」
「あなたが失敗することもあるの?」
驚いたロビンの言葉に、黒髪の尼僧の顔は翳った。
「……最初は火竜の子供だった。そしてクルルは三度目だった。首に鎖の付いたメデューサが氷に閉ざされた姿を幻視した私は、神の声がただ一言、スノーフィールドと告げるのを聞いた。
二度目は人魚だった。けれど、あの時私は間に合わなかった。それが恐ろしい結果につながってしまったんだ」
呻くようなその声に、思わずロビンはかたずをのんだ。
作品名:『ヴァルトハールの滅亡』(『遥かなる海辺より』付章) 作家名:ふしじろ もひと