『遥かなる海辺より』第2章:ルヴァーンの手紙
こうして私は人魚に会い、その歌を書き留めることができた。それが昨夜から今朝にかけてのことだったが、それまでの長かった日々も、こうして振り返ると同じ一夜の夢での出来事だったとさえ思えてくるほどだ。
それでもこの手紙を書くことで、定まらなかった思いや考えをずいぶん整理できたように思う。読みにくい手紙につきあわせてしまい、すまなかったとは思うが。
とにかくこの楽譜は急いで送りたいと思う。あなたには多大の援助を仰いだばかりか、いろいろ心配もかけてしまった。だからこの旅の成果は約束どおり、あなたのもとへ送るつもりだ。
だが私はこの曲を、もう自分で公表しようとは考えていない。今回のことは自分のこれまでの考え方を、根こそぎ変えてしまうほどの体験だったと今にして思う。私は名声を欲するあまり、なにか新規な技法を期待して人外の歌に手を伸ばした。かりに手に負えなくても、持ち帰りさえすれば有名になれると見せ物師まがいのことまで考えていたのだ。ただただ自分が恥ずかしい。
私は彼女に教えられた。人魚の歌がああいうものになるのは、彼らがその思いに自身の取りうる手段を駆使して最もふさわしい形を与えようとするからであり、人間が手段だけまねても意味がないのだと。人間にも人間にしかなしえない音楽があるはずで、きっとそれはこの大陸のあちこちに、風土や歴史の反映としての多様なありかたで伝えられているに違いない。その尊さを私は知ることができたのだ。
そもそもこの楽譜は私の曲などではない。私はほんの少しヒントを出しただけで、あとはすべて人魚が自ら作り出したものだ。そんなものを自分の名声の礎にしようという考えが間違っていたと今にして思う。だからもう私は、自分の名前をいかなる形でもこの楽譜と関係づける気になれない。
もちろんあなたが私を援助してくれた以上、あなたはこの曲に権利を持つ。そのことは否定しないし、この曲から利益を回収しようとするのは当然だと思う。この曲はたしかにすばらしいし、世に出ること自体は決して間違っていないはずだから。
アラン、だがもしこれをあなたが世に出すのなら、人魚の曲であることも伏せていただきたいと私は願う。この曲の成り立ちや内容を思えば、これは珍奇さへの好奇心から聴く曲ではないし、由来に関する知識なども必要としないはずだ。興行面の仕掛けが必要であれば、いっそ作者も由来も何ひとつわからないといって神秘のヴェールで包んでほしい。そのほうがずっとふさわしいと思う。
そして心から願うのだ。ルードの村の人魚をそっとしておきたいと。この海辺の村に奇しくも棲みつき、まるでかけ離れた存在である村人たちと寄り添って暮らしている人魚。その奇跡のような暮らしぶりはこの地に楽園の趣きをもたらしていて、少しでも長く続いてくれることを祈らずにはおれぬほどいとおしく、今はただこの平安が人々の耳目を集めることで乱されぬよう願うばかりだ。そんな思いを私に抱かせた出来事をひとつ、最後に記しておきたい。
作品名:『遥かなる海辺より』第2章:ルヴァーンの手紙 作家名:ふしじろ もひと