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擬態蟲 下巻

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15 終曲



【擬態蟲】15 終曲

http://www.youtube.com/watch?v=DuBexGEe1S4&feature=related
Rachmaninov - Vocalise

その朝から丘の中腹の窯で善一は火が耐えないように注意深く働いた。
翌日の新聞には横濱外国為替両替所の所長大塚の死亡記事が小さく載っていたが大きく取りざたされることはなかった。
世間も桑畑権蔵が土蔵から出なくなった・・との噂は広まったが
親も親なら子も子だね・・という程に深まることは無かった。
しかし会社の新体制が固まり新たな機械の購入などの決裁権を持て余した
福田千吉は、権蔵の行方を善一に尋ねても何もいわないことに疑問を持った。土蔵に向かうと、白石小隊長か佐佐木原清人に追い返される。
息子の善一ときたら夢中になって昼も夜もなく窯で薪を燃やしている。
そんな折り、遅い梅の便りを聞いた頃だろうか。

善一に、佐佐木原清人の声がかかった。
善一は、白い息を吐きながら残雪残る丘を駆け上がり、“おかいこ御殿“の門を通り抜け母屋を抜け、裏山の小路を駆け抜けた。
土蔵に向かって、なにかが・・なにかが起こっている!そんな期待を胸に。
軍の衛生兵たちが出入りしている土蔵の前に白石小隊長が立っている。
善一を見かけると、少し困った顔をした。
だが兵士に伝言を告げると、佐佐木原清人が現れた。
このひと月、この土蔵に居続けたのだろうか、ただでさえ痩せ衰えたような顔つきの男が更に疲労困憊気味で目の下にくまを作り、白髪交じりの髪の毛も髭も伸び放題。
薄汚れた白衣を纏い、その袖は腕まで捲り上げられている。
その貧弱ながら骨太そうな左腕には日本のものではないが
なにか普通ではない尋常ではないもののシンボルが刺青が彫られていた。
それがなにであるのか知る由もなかったが、善一は途轍もなく禍々しいものを感じた。
佐佐木原清人は善一をともない土蔵に入った。
土蔵の中は外気とは違いむっと咽るほどの熱気を感じた。
軍隊が設置したと思われる金属製の扉を開けると、まるで布団袋のような巨大な繭が天井や壁にくっつくように作られている。
数え切れないほどの繭が部屋を埋め尽くしていた。
これほどの大きな繭を作るのであれば、蛹も大きなものだろう、と善一は目を半透明に見える内部で妖しくうごめくものの大きさに驚いた。
佐佐木原清人は、指を一本、唇の真ん中で立てて静かにするように促した。そして促されるままに二階に通じる階段を登って行くと。
更に巨大化した繭が形作られていて・・・。
半透明の繭玉は中から激しく揺すぶられていた。
「善一君、よく見たまえ。いよいよ誕生するぞ。まさに歴史的な瞬間だ。」
「いったい、なにが生まれるのですか?」
「新たな種だよ。我々人類がより一段高いステイジへ進化する瞬間だよ。」
「それは・・どういう意味ですか?」
「見ていれば解かるさ。」
巨大な繭玉は、中から穴を開けられ、と同時に粘液に塗れた巨体が床にどろりと落ちた。そのグロテスクな光景に善一は眼を背けると、佐佐木原清人は千吉を押さえつける。
「しっかりと見るのだ。」
床に転がった巨体は粘液に濡れてはいるが手足は濃い白い体毛に覆われている。いや、これは蛾ではない。この体はまさしく、二本の手足を持つ人間の体のようだ。巨体はゆっくりと起き上がるとぎこちなく立ち上がった。その体躯のよさ、筋肉の付き方は・・善一は思い出せなかった。
「卵から生まれ、沢山のさまざまな栄養を取って・・。
あぁ大量の桑の葉由来の人工飼料も食べたし、軍の計画本部のつくったミネラルも食べた。この土蔵に転がっていた骸もだ。」
千吉にはそれが桑畑権蔵の遺骸であることは察しがついた。
「あらゆる栄養分を補充し・・生まれたのだ。」
善一には後姿でぎこちなく立ち上がる巨体の筋肉のつき方が桑畑権蔵のものに似ていることを思い出した。
と、同時に湿気を含んだ蒸し熱い土蔵にいながら、途轍もない冷気を背中に感じた。床から起き上がった巨体は背を向けたまま仰け反ると、くぅぅぅーっと押し殺したような欠伸のような声を発し、背中の皮膚を破り巨大な蛾の羽を迫り出した。
佐佐木原清人は、感嘆の声をあげた。
「すばらしい、なんとすばらしい・・!
これこそが新たな人類の形、これこそが我が大日本帝国の富国強兵計画の真骨頂。」
慣れない巨大な羽を震わせながら巨体がこちらを振り向く・・・。
千吉は固唾を呑みながらその姿を見る。
その姿はまるで・・巨大な複眼を持った桑畑権蔵の姿・・のようであった。余りの恐ろしさに千吉は、半狂乱になって暴れたが佐佐木原清人は善一を離さない。
「小僧、よく見るのだ。これが新たな人類の進化だ。」
更に多くの繭が大きく蠢き出し、床に粘液塗れの肉塊が転がり落ちる。
ぼとり、ぼとりと。そのなかのいくつかは桑畑権蔵の様ながっしりとした体格をしたものだが中には明らかに華奢なものもいる。
やはり背中から大きな羽を出しながら、その白い華奢な脚でよろよろと立ち上がる。
「やはり遺伝子というものは存在するのだな。」
佐佐木原清人は冷静に話し出す。
「母体と父方の特徴を次世代に活かす・・塩基の配列のことだよ。
キミもお父様とは目鼻スジがそっくりだろ。
そういう特徴を受け継がせてゆく云わば“仕掛け”だ。
あれ、あの大きいほうは桑畑権蔵氏の特徴をよく受け継いでいるじゃないか。ところがどうだろう。こちらの華奢なヤツは。
いったい誰の遺伝情報を受け継いでいるのだろう?」
明確な答えを知っているような、もったいぶった佐佐木原清人の問いに
善一は体中の体温がいっきに上がり、涙と鼻水と唾液がいっせいに溢れ出した。白い羽を羽ばたかせながら、華奢な体をこちらに振り向こうとしているそれを。あまりの恐ろしさに善一は吐き気を催し、体を屈め込む。
その姿を見て佐佐木原清人は、無残な笑い声を上げた。
「いかにせよ、これで我が大日本帝国は空を飛ぶ兵士を有することになったのだ。清国にも、お露西亜国にも先んじて、我が国は空を制圧することが可能となったのだ!」
まるで狂ったように喜ぶ佐佐木原清人の甲高い笑い声が、土蔵に響いた。

作品名:擬態蟲 下巻 作家名:平岩隆