擬態蟲 上巻
のこりの五分が雄と雌に分けられて、職人の手により成虫になるまで育てられる。繭から生まれた白い羽を持つ成虫は湿気の多い羽を徐々に広げて羽ばたかせるが飛ぶまでにはならない。むしろ長い人間との共同生活の中で飛ぶことを止めてしまった。熟練の職人が雌に雄を交配させるべく近づけてやると互いに尻を近づけて羽をばたつかせてやがて交尾をする。
その様は子供心にもなんともエロティックで興味津々となるもので善一は見てはならないものを見ているような気分となり、しかし桑畑権蔵はそんな居ずらそうな善一の様子が面白くて仕方ないようでしかし、笑いをこらえていた。「この世には男と女しかおらんのだ。こうして子を生すのは人間もお蚕さまもおんなじよ。」
善一は不思議そうな顔で桑畑権蔵を見上げる。
「人間もこんなことをするのですか?」
桑畑権蔵、こうも直線的に問われると答えに詰まってしまって咳払いをする。
「今に解かることじゃ!」
と言い放つと、建屋から出て行く。
善一は繋がったひとツガイの蚕がバタバタと羽ばたいているのを職人が
横から手を入れて離してしまう光景をみた。
職人は「あんまり逆上せ上がるとこまるんでな、途中で終わりだ。割愛というんだ。」
「善一ぃ!」桑畑権蔵の野太い声がして、善一は後を追いかけた。
「ここは研究棟だ。」
窓のない大きな二階建ての蔵の前に居た。
蔵はたくさんあるがそのなかでも群を抜いて大きな蔵だ。
「いいか。あの桑畑の先にある洞穴の中にある罐(かま)が
我が圓寅養蚕株式會社の心臓部だ。秋冬春先まであすこで薪を燃やして各建物に地下の水道配管を通して熱を循環させておる。
そして、この研究棟こそが我らが脳髄の部分だ。」
蔵を開けると此処も温水を循環させてありムッとするほどの温かさがあった。
「ここの一階では冬場の餌を研究しておるのだ。
桑の葉が落ちる秋から冬にかけて餌を実験しておってだ。
いまのところそれなりのものが出来て入るんだが、いまひとつ食いつきがよくなくてな。
まだまだ研究の余地があるのだ。夏も冬も変わらぬ生産量を維持するために、桑の葉に変わる人工飼料とでもいうか。そういったものをこさえておるところじゃ。」
千吉にはランプで照らされたその光景は、先程の蛾の交尾に比べれば単調なものに見えた。
「桑の葉をこねて団子を作ってみたり、乾燥させてみたり、いろいろやっておるんだがなかなか決め手がないな。」
階段を登り二階に昇るとそこは白衣を身に着けた男たちが蚕蛾を手にしていた。他に黒いスーツを着た、ガタイのいい男がいて、桑畑権蔵に挨拶をする。
「いやご苦労様です。」
と桑畑権蔵も軽く会釈をする。
「こちらこそ、御世話になります。いい種が入りましてね。」
掌ほどの大きな蚕の成虫が羽をばたつかせている。
「ほぅ・・?」
「比律賓の向こう、インドネシアと豪州の境目の島に居る種でございます。」
「ほぅ・・。」
種紙の上に並べられた卵は大きい。成虫も大きければ、其れが出てきた繭の大きなこと。
善一は大きな蚕の成虫に心を奪われていたが、桑畑権蔵に「挨拶せんかい!」と背中を押される。
「こんにちは!」
まぁ子どもらしい挨拶だ・・と桑畑権蔵は思った。
「こちらは熊山さんだ。圓寅海運の社長さんだぞ。
海外への輸出入だけでなく新たな南蛮渡来の珍らしい種を探してくれているんだ。品種の改良は、常々行なっていなくてはならない。
どうだ、この繭の大きさ。美しさ。なかなかいいじゃないか。」
すると熊山はへへっと笑いながら「どうも・・。」と答える。
「この種もいいんですがね。
裏にも入れておきましたが、西班牙産の白人美女を手に入れまして。」
桑畑権蔵は熊山の顔を見ると表情を和らげる。
「熊山さんもぉ・・海賊稼業から抜けられないようだなぁ・・
どうだいオモテも忙しかろうが、女衒のほうも忙しいとみえますなぁ。」
二人の社長が大笑いするのが蔵の中に響く。
「いやぁまぁ・・。商売は、信用が第一ですから・・。繁盛させてもらってます。」
「はははは、まったく商売は信用が第一ですなぁ。
ときにいい機会だ。この千吉にですな。教えてやってくだされ。
信用とはなんぞや・・と。」
善一の手前、桑畑権蔵は商売の勉強でも
させようとしたのか。突然そんなことを聞かれて。
しかし海賊あがりで女衒あがりの百戦錬磨の圓寅海運株式會社の社長である。
「約束は守ること。そして商品に手をつけないこと。」と言い切る。
熊山は千吉の頭を撫でながら。
「善一。いい話を聞けたな。」
熊山の目つきが変わったのが桑畑権蔵は気に入らなかった。
「善一ぃ、表で待っておれ!」
「はい!」
善一が蔵の外に出て行くと
「熊山さん、どういうつもりかは知らんが、あの小僧に手を出しちゃぁならんぞ。」
「桑畑さん。私はオモテの仕事でも、ウラの仕事でもあなたに精一杯尽くしております。」
「あぁ、わかってるよ。だから其れなりのお支払いもしているわけだが。」
「ただ・・ボーナスもいただきたい・・。」
桑畑権蔵はヒュゥーっと口を丸め息を吐きながら、天井を見る。
「あの新種の蚕にしたって手に入れるまでには
命を落とすような危険な目に何度遭ったことか_。」
「感謝してますよ。この繭が使い物になるなら莫大な利益があがるでしょう。
あなたの連れてきた色白の西班牙娘もきっとええからだをしているとも思います。
あぁ、あなたが信用にたる男だからです。だのに。」
次の瞬間、白スーツを着た優男が二階の床に突き飛ばされた。
「あなたの唯一気に入らんところは男色趣味だ。
まして、あの小僧っこにおかしな真似をするようなら、
悪さができんように切り取ってしまうぞ!」
そういうと階段を降りていった。
蔵前で待っていた善一の顔を見ると桑畑権蔵は目を見つめていった。
「いいか、善一よぉ。この繭がよぉ、今の皇国を成り立たせておるんだぞ。我ら皇国の男児は、天皇陛下のために。皇国のために。尽くすのだぞ。日ノ本の国のみならず、海を越えて世界に挑み出てゆくために。
勿論、さまざまな方法がある。
軍人になるのもいいだろう。
商売人になるのもいいだろう。
だが、いずれにしろ、御国のため、天皇陛下のために働く男となるのだぞ。
さうすれば、この国も豊かになる。この郷も豊かになる。
皆が幸せになる。これこそが天皇陛下の御意思とこころえょ。わかったな。」
善一は父親でさえ教えぬことを教えてくれた桑畑権蔵に憧れを感じた。
父親には感じぬ“無頼”という生き方と、
父親も教えてくれぬ人生の在り方というものについて。
善一は、絶大なる信頼を桑畑権蔵に感じた。