洪嶽とアルバート
「わたしは以前より、質量とエネルギーは等価であると考えていたのですが、これは正しいことでしょうか?」
洪嶽はふたたび視線を宙へさまよわせた。しかしそれは途方に暮れるというより、思いついたイタズラの効果をじっくり検証しているといったふうだった。
「氷は水より生じて水よりも冷たく、青は藍より作られて藍よりも青し。また水を水で洗うことが不可能ならば、金を金で買うこともまた無意味。つまりは、そういうことでしょうな」
さっぱり理解できないにもかかわらず、ものすごく根源的な部分においては当を得ているように思え、アルバートは感心してうなずいた。
「ではもうひとつだけ。今わたしが一番悩んでいる命題なのですが、自由落下する箱のなかに置かれた物体には、はたして重力が作用するものでしょうか?」
聞いているのかいないのか、洪嶽はアーレ川のゆるやかな流れをぼんやり見つめていたが、やがて川面の一点を指さした。
「あれはなんという鳥ですかな?」
少々面食らったアルバートだが、それでも目を凝らしてその鳥を見た。
「あれは……たぶんアオサギですね。どこか南のほうから渡ってきたのでしょう」
そう言っていた矢先に、涼しげな羽音を立て二羽のアオサギはどこかへ飛び去ってしまった。
「飛んでいったのかな?」
「はい、そのようです」
「どこへ行くのかね?」
「さあ、どこへ行くのでしょう」
それを聞いた洪嶽は、いきなりアルバートの鼻をひねりあげた。
「痛いっ、なにをするのです」
「飛んでいったというが、アオサギはちゃんとここにいるではないかっ」
そのとたん稲妻のように閃くものがあった。アルバートは忽然となにかを悟り、そして同時に頭のなかである数式が浮かびあがった。
Gμν+λgμν=κTμν
「これだ……」
一瞬夢見るような目つきになった彼は、やがて洪嶽の手を握りしめて言った。
「やっと解を導き出すことができました。全部あなたのおかげです」
「法問を機縁として大悟するは、最上のなかに最上なり、と申しましてな」
「またいつかお会いすることはできますか?」
「お互い生きていれば必ず会えるでしょう。もし日本へ来ることがあったなら、鎌倉の円覚寺という寺をたずねてきなさい」
そう言い残し、洪嶽は悠々と歩き去っていった。
彼こそは、あの夏目漱石にも禅の道を説いたという臨済宗の高僧、釈宗演(しゃくそうえん)であった。
そしてアルバートはこの十七年後、ノーベル物理学賞を受賞することになる。