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幸子の住む街は春の訪れが遅い。今日も空は鉛色の雲で覆われている。
「ほら、ちゃんと荷持は揃えたの? 何かあっても母さんがすぐには行けないんだからね」
 幸子の言葉に娘の翠は少々うんざりとした表情で
「大丈夫だよ。それに結婚する訳じゃないんだから」
「じゃあ、ただの同棲で、どうしてそんな遠くに住むのよ。電車で二時間もかかるような場所なんだから」
「それは、勤務するのがそっちだし、家賃も安かったし、猫のミイも一緒に住んでも良いって言う条件だから……」
 翠はこの前からの理由、いいや母親の幸子からしてみたら「言い訳」を繰り返すのみだった。

 翠はこの春大学を卒業して就職した。薬剤師として大手の薬局チェーンに務めることになったのだ。そして、その勤務地が隣の市だったのだ。
 さらに、幸子にとって腹立たしかったのは、高校の頃から付き合っていた年上の孝とこれを機に一緒に暮らすと言い始めたことで、既に部屋も借りてると言うことだった。
「事後承諾じゃない!」
 先日、孝が挨拶に来た時に幸子はあまりの事に大きな声を上げてしまった。横で夫の耕太郎が
「一人娘を出すのだから、もっと事前に相談して欲しかったね。翠もなんで今まで黙っていたんだ? どうせ反対するから事後承諾で良いと思ったのか」
 耕太郎はややもすると激情する幸子とは違い、あくまでも理路整然としている。翠にとってはそこが実は一番の難関だった。
「あんたなんか、今までろくに家事だってやって来なかったでしょう。大学に入ればすぐにバイト始めて、ゆっくり家に居る暇なんか無かったし、それに普段からろくに掃除もしないんだもの。いきなり一緒に暮らして出来るの? 仕事だって今までのようなバイトじゃないのよ。大変なんだから……」
 幸子の心配は尤もだと耕太郎も思っていた。だが翠と孝が声を揃えて
「家事は二人でやりますから、大丈夫だと思います」
 そう言って胸を張ったのだ。そして孝が
「実は僕は掃除や洗濯が好きなんです。今でも実家の洗濯は僕がやってるんです」
 そんな事を言うと翠が調子に乗り
「だから、多少わたしが下手でも大丈夫なの」
 そう言って孝の顔を見つめるので、
「あんた私の娘の割にはお馬鹿ね。男の人は仕事第一でしょう。遅くだってなるだろうし、結局女のあんたが皆やることになるんだよ。そんな事も判らないの! 近ければ私がちょこちょこ行ってやれるけど、二時間もかかるんじゃ行けやしないじゃない!」
 痛いところを突かれて翠も孝も黙ってしまった。実は、そんなことも話していたのだが、楽天的な二人は
「ゴミで死んだ人はいない。いざとなったらコンビニで何か買えばよい。むしろその方が無駄が出なくて良いよ」
 などという事を話していたのだ。幸子は娘の性格からして、そんな事を考えているだろうと言う事はお見通しだった。
「まあ、嫁にやると決めた時から出て行くのは覚悟出来ていたけどな」
 耕太郎が淡々と言うのを見て幸子はかなり我慢をしているのだと理解した。
「それにねえ、普通は学校を卒業したら少しは家に居るものでしょう。私はそうしたわよ。今まで迷惑かけた分一生懸命に親孝行しようと思ったわよ。それが、卒業したらもう親は必要ありません。と言ってるみたいじゃない」
 幸子の怒りは留まることがなかった。
 結局、部屋は既に借りてあるので、今月の末から孝が移り住んで、環境が整っ
たら翠が行くと決まった。いや決まっていたのを聞かされたのだった。

 孝が帰るので翠がバス停まで送って行くので二人が居なくなると幸子は
「この前、私は黙ってるって言ったのに、私ばかり喋ってしまったわね」
 そう言って耕太郎にコーヒーを入れて差し出した。
 マグカップに手をだしながら耕太郎は
「何年一緒にいるんだ。君が真っ先に何か言うと思っていたよ。まあ言わなかったら俺がネチネチと虐めてやろうかと思っていたんだがな」
 そんな事を言って僅かに笑った。
 幸子もそれは判っていた。でも、それを夫にやらせてしまうと収拾が付かなくなると思ったのだ。だから自分が前に出ておけば良いと思ったのだ。ああやって爆発してしまえば、返って収拾が付け易くなると思った。
「実はね。学資保険のお金が残っていたから、持たせてやろうかと思っていたんだけど、少し待ってみる。二人の収入でやって行けるのか判らないしね」
「そう、結婚資金だって貯めるつもりなんだろう。貯金出来るのかい?」
「さあ、今のうちは出来ると思ってるんじゃないのかしら」
 そこまで言って、耕太郎はコーヒーを飲むと
「俺たちの時も大変だったな」
 そう言って幸子を見る。
「そう、私たちは社会人だったからお互いに貯金もあったけど、それでも、あなたは大変だった。私の親が『人並みの式は挙げて貰わないとね』なんて言うもんだから、あなた、休日出勤や残業を沢山して」
「その為に一緒に暮らしたは良いが、部屋に帰るとバタンキューでな。怒っていたっけな」
 昔の事を思い出して、幸子は大変だったが充実していた若い頃を思い出した。式を挙げたらすぐに妊娠して、難産の末に生まれた一人娘。もう一人は欲しかったが遂に出来る事はなかった。だから、その分も含めて大事に育てて来たつもりだった。
 その娘が自分たちと同じような事をしようとしている……そんなことを思ったら頬を涙が流れていた。
「実はな、亡くなった俺の親父がお袋と一緒になった経緯も同じような事だったそうだ。お袋がポツリと漏らした事がある」
 耕太郎の言葉にではこれは血筋だと思った。この家に脈々と流れている血筋だと……

「忘れ物は無いの? ちゃんと持ったわね?」
「大丈夫、でも多分、向こうで暮らし始めて気がつく事もあるかな? そんな時は纏めて取りに来るよ」
「纏めてじゃ無くても構わないわよ」
 幸子がそんな軽口を言って、翠が玄関を開けると表は白いものが落ちていた。幸子は傘を持つと
「雪が降りだしたから荷物一つ持ってバス停まで行ってあげるわよ」
「え、いいわよ。大丈夫だから」
「バカ、こういう時は素直にハイって言うものよ」
 翠は判っていた。でも自分で決めたことだから、今更甘える訳には行かなかった。これからは親には頼れない暮らしが始まるのだから……
「ありがとう……じゃあ頼もうかな」
 大きなキャスターの付いたスーツケースを翠が押して、ショルダーバッグを幸子が肩に掛けて傘をさして歩き出す。
「積もるかな?」
 翠の心配に幸子は
「春の雪だから積もらないと思うわよ」
 だが、辺り地面は既に真っ白となっていた。
「あんたの門出に相応しいかも知れないわね」
 幸子の言葉に翠は不思議そうに
「なんで? 意味が良く判らない」
 そう言って顔を傾げる姿に幸子は
「これから、あなた達の暮らしが始まるのよ。今はまだこの雪のように真っ白なの。これからここに二人で色々な事を描いて行くのよ。頑張りなさい」
「お母さん!」
 翠は泣くまいと思っていた。泣けば幸子の事だ、きっと余計な心配をするだろうと思って、脳天気なふりをしていたのだ。だが、母としてのその言葉を聞いた時に涙腺が緩んでしまった。
「あ~んダメダメ、泣くのは式の時まで取って置きなさい。まだ、ただの同棲なんだから」
作品名:送る日 作家名:まんぼう