ひこうき雲
いつの間にか立ち上がる俺。苛立ちを吐く俺の心の奥を覗き込むように見上げる大きな瞳。
公子だった。モスグリーンの大きなトートバッグを提げたハムちゃんが一拍置いてへの字口をする。
「ひどい。だって、営業の資料を貸してくれって言ったのは柿崎さんでしょ。」
確かにそうだ。
「なにもわざわざこんな時間に。しかも今日は金曜日だぞ。飲みに行ったりとか、イケメンとデートとか。」
苛立ってしまったことを揉み消すように茶化してみせる。
「しかも、そんなに大きい荷物持って、家出か?」
それでも固まったままの公子に更にひと言被せる。
「資料、営業の資料。沢山持ってきますから。って言ったじゃないですか。」
固まったまま、公子の瞳が不満を訴える色に変わる。
しまった。頼んだのは俺だ。まさかこんなに早く対応してくれるとは。
「ゴメン。俺が頼んだのに、まさかこんなに早く持ってきてくれるなんて思わなかったからさ、しかもこんな時間だからさ。」
申し訳なさが俺の口数を多くする。
「また輝いて下さいね。って言ったじゃないですか、忘れちゃうほどインパクトなかったですかぁ?残念。」
大きな瞳が俺を試すように爛々とし始める。
コイツは昔から瞳で表現するヤツだったな、だが、小娘だった頃と破壊力がまるで違う。ということを今更ながら実感する。
ま、オジサンの勘違い。なーんて無様な、そう、ブザマな結果は見え見えだ。軽く流す。流すんだ。
「それに、通勤ラッシュの時にこんな大きな荷物持ち歩きたくないから、今持ってきたんです。柿崎さんこそ、こんな時間まで大変ですね。」
わざわざ俺のために、わざわざ、金曜の夜なのに?勘違い云々の前に、もう感謝しかない。
「ありがとう。わざわざゴメンな。」
コイツは昔から一生懸命だったもんな。そう、相手が俺だからじゃない。誰にでも、何にでも一生懸命。だから開発でもハムちゃんと言われて可愛がられてたんだ。いくら男だらけの開発部隊でも単に可愛いだけだったらそこまでの人気は出ない。
「で、あとひとつなんですよね?」
「えっ、何が?」
「仕事、「あとひとつだ。頑張れオッサン」って言ってたじゃないですか。」
あ、やっぱ聞かれてたんだ、あの独り言。もうどうしようもないな。
「あちゃー。聞いてたのか。そう、あとひとつ。だ。」
「じゃあ、やっちゃって下さい。あたし、待ってますから。」
待ってるって、な、何を?だから勘違いは無様だからな。おれはただのオッサンだ。ハムちゃんも歳は取ったが、ひと回り近く歳下。まだ30代だ。俺は50に首を突っ込んでるオッサンだ。
「いーよ、いーよ。早く帰りなよ。」
この頬の感覚、もしかしたら俺は顔を赤らめているのかもしれない。いかん。無様だ。
「えええっ、帰らせちゃうんですか?柿崎さんのために、健気な部下が資料を持ってきたのに。」
うーん、確かに素っ気ない。というかケチだ。ということは。
「高いですよ。って言ったじゃないですか。」
さらに公子が言葉を被せてくる。
そういうことか、でもこんなに押しが強い娘だったかな。営業だからか?まあいい。確かに、自分のためにこんな時間に来てくれたんだ。飯ぐらい奢らなきゃ男が廃る。
「そうだよな。じゃ、飯でも食いに行くか。あ、お前が「高い」というのは認めんからな。」
少し主導権を取り戻した振りをして、俺はパソコンに向き直る。背後で公子が近くのデスクから椅子を引き寄せて座るのを感じながら。
近いな。と感じるのは、勘違いの始まりかもしれない。
俺は、もう一人の「おめでたい」思考の俺を戒めながら最後の仕事に手を付けた。早く仕事を終わらせたい。という想いと、どの店に連れて行こうか、その後は、という様々な思考回路で俺の頭はフル回転を始めた。